歌番組を見ながら、ソーシャルメディアをチェックしていると、歌いはじめてすぐに「声が出てない」「キーが違う」「口パクか」といった書き込みを目にすることがある。さらに「劣化した」「痛々しい」「見てられない」など、いいたい放題の書き込みが続いていくこともしばしばだ。
そんな見方をして何が楽しいのだろうか、と思いつつ、写真に関しては、自分も同じような見方をしていることがあることに気づき、苦笑してしまう。
然るべきポイントにピントが来ていない写真を見ると、これはたまたまなのか、意図的なのか、気づいていないのか、などと考えてしまうことがある。
たまたまだとしても、なぜこれが許容されてしまうのだろう、意図的だとするなら、半端なところにピントが来ているのはなぜなのか、これに気づかないことなどありうるのだろうか、作者はもとより誰も指摘しなかったのだろうか、といったことを考えつつ、他の写真も見てみる。
他の写真にそうした曖昧さがない場合には、なぜその写真だけ判断が甘くなったのかが気になる。どうしても入れたいなら、再撮影すべきではないだろうか。再撮影が不可能なら諦めるべきではないだろうか。諦めきれない写真だということは、それだけ重要だということだろうが、だとしたら内容が表現を超えるという判断なのか。
他の写真にも同じような曖昧さがある場合には、なぜその状態で発表するに至ったのかがわからなくなる。一般的な許容範囲から逸脱しているように感じる私がおかしいのだろうか。
こんなことを考えさせられることにも苛立ってくる。いったい何に苛立っているのだろうか。たかだか一枚の写真の、わずかなピントのズレでこうなのだから、気になることは無数にある。
この過剰な補正はどういう意図なのか。銀塩時代だったら、けっしてこうはできなかっただろう。銀塩風のトーンを目指しているように見えて、銀塩では不可能な表現になっているのはどういうわけなのだろうか。若さゆえなのか、老いゆえなのか、年齢は関係ないのか。
気になれば気になるほど、さらに苛立ってくるのだが、この苛立ちの一部は、時代の変化、あるいは私自身の老いに由来していることも確かだろう。
慣れ親しんだ時代の基準が自分に染みついていればいるほど、そこから逸脱しているものには違和感を覚えることになる。私はたまたまフィルム文化に触れている時期が長かったので、それが感覚的な基準になっているのだろう。
とはいえ、その時期のなかでも、たとえばRCペーパー(ポリエチレン樹脂コーティングの印画紙)が登場した時は、まがいもののようにいわれたし、彩度が高いリバーサルフィルムが登場した時は、邪道のようにいわれたものだった。
50年、100年という単位で考えると、ある種の感覚的な基準は、たんなる体験的な価値観の産物にすぎないことは明らかだ。だからといって、そうした基準がまったくないと、どう受け取っていいのかわからなくなってしまうだろう。
——あれもいい、これもいい、なんでもいい、きみたちはほんとになんでもありなのか? そんなに、いいです、いいです、イーデス・ハンソンでいいのか?
真面目な写真家が、真顔で熱く語っているうちに、ダジャレが紛れ込んだ会話を、突然思い出してしまった。このダジャレを理解できる人も、今日では少ないだろう。
——いいです、いいです、でいいのか?
じっさい私自身は、あれもいい、これもいい、というか、どれでもいいと感じることの方が多い。歌を聞いて「声が出てない」と感じたり、飲食店で「味が変わった」と感じるほどの自信がないので、自分の感覚の問題かと思ってしまう。
私の苛立ちは、そうした自信のなさを揺さぶられてしまうせいのかもしれない。



PCT Membersは、Photo & Culture, Tokyoのウェブ会員制度です。
ご登録いただくと、最新の記事更新情報・ニュースをメールマガジンでお届け、また会員限定の読者プレゼントなども実施します。
今後はさらにサービスの拡充をはかり、より魅力的でお得な内容をご提供していく予定です。
「Photo & Culture, Tokyo」最新の更新情報や、ニュースなどをお届けメールマガジンのお届け
書籍、写真グッズなど会員限定の読者プレゼントを実施会員限定プレゼント