写真は繰り返す。
一度撮った場所を、二度、三度と撮ってしまう。春になったら桜を撮り、秋になったら紅葉を撮り、というようなことだけでなく、同じ街を訪ね、同じ場所を、同じように撮ってしまう。
それが定点観測のような記録になる場合もあるが、それを目的にしているわけではない。たんに結果としてそうなってしまうだけなのである。
どちらかというと、それはルーティンのようなものなのかもしれない。同じ場所を、同じように撮ることで、今日の違いを確かめる。
天候、日差し、同じ瞬間は二度とやってこない。カメラやレンズが違えば描写が違うし、何よりも、昨日と今日では同じ身体ではないはずだ。
そうであるはずなのだが、同じように撮った写真は、おうおうにして驚くほど変わり映えしない。同じ街、同じ場所を訪れているつもりすらないのに、寸分違わず同じような写真が撮れてしまう。
もしこれがルーティンならば悪いことでもないのだろうが、知らぬ間に撮ることがルーティンと化しているとしたらどうだろう。
写真は繰り返す、なのか、身体は繰り返す、なのか、カメラを持った身体は繰り返す、なのか。
複製技術なのだから、写真が繰り返すのは、いわば自明のことでもある。写真がそれ自体を複製できるということは、二度目、三度目も内包しているということである。二度とやってこないはずの瞬間を、二度、三度と増殖させることができるのだ。このことが、あたかも無意識のように、写真を繰り返すことへと導いているのかもしれない。
もちろん、同じ場所を同じように撮ってしまうことと、同じ写真を複製することは異なっている。行為としてまったく違う。
しかし、寸分違わず同じように撮れてしまった写真と、寸分違わない複製された同じ写真に、違いはあるだろうか。それらはむしろ、行為のみが違っているのではないだろうか。
じっさい、そうした例は何ら特別ではない。必要な写真がなかなか見つからないときに、同じような写真を新たに撮って、同じ写真として活用するのは、よくあることである。デジタル時代においては、同じ写真を新たに撮るという、この逆説的な行為の方が普通になっているかもしれないくらいだろう。
こうなってくると、同じ場所を同じように撮ってしまうことと、同じ写真を複製することが異なった行為であるということも、あやしくなってくる。
——あの写真、どこだっけ。見つからないなあ。しょうがない、ちょっと撮ってきて。あ、ちょっと待って、あったあった。撮らなくても大丈夫だ。
このように、ふたつの行為に境目はない。行為に境目がないどころか、撮る身体にすら境目がないのかもしれない。
——でもこの写真、誰が撮ったんだっけ。わからないな。使えないかもしれないから、やっぱり誰か、ちょっと撮ってきて。
誰が撮ったのかわからない写真を撮り直すのは、誰でもいい。すると、カメラを持った身体は繰り返すというその身体もまた、交換可能だということになるのだろうか。
写真は繰り返す。写真それ自体を、撮るという行為を、撮る身体を、繰り返す。
いや、ここで書こうとしたのは、このようなことではなかった。もう少し、具体的なことを書こうとしたのだった。
にもかかわらず、写真は繰り返すという話を繰り返し書いてしまったのは、写真は繰り返すという言説それ自体も、写真のように繰り返すということなのだろうか。
そう、書こうとしたのは、そのような繰り返しについてだった。
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