(承前)
かつて私が、「白っぽいプリント」や「中途半端にみえるフレーミング」と形容した写真は、ほんとうにそういうものだったのか。少し緊張しながら会場に足を踏み入れ、写真を見はじめる。
そのことを確かめるまでもなく、展覧会の解説パネルに「白っぽくて明るい」「リアルな『日常』が映し出されている」という記述があるのを見つけた。「この白っぽさこそが80年代になって日本が急激に豊かになった時代の色かもしれないと思った」と、作者も自身も書いている。
もしかしたら、36年前の私も、解説や作者の言葉を読んで、「白っぽい」と形容したのだろうか。だとしたら、がんばっているどころか、予定調和の評でしかない。
「中途半端にみえるフレーミング」の方はどうだろう。たまたま見に来たような三人組の若者が、居酒屋の写真を見ながら「酎ハイが200円って安いね」「ウイスキーってどうやって飲んだんだろう」という会話をしていた。人物に背景に写り込んでいた壁のお品書きを見るという、細部の発見。年月を隔てたこのような発見は、中途半端なフレーミングの賜物でもあるだろう。
「レンズをやや上向きにしてこの地を写した」と作者は語ったという。もし当時、この言葉に触れていたら、それに沿って書いたかもしれない。「中途半端にみえるフレーミング」と形容するよりは、はるかに明確である。しかし、「レンズをやや上向きにしてこの地を写した」というのは、作者しか知りえない作為でもある。今なら間をとって、たとえば「曖昧にも感じるフレーミングは」とでも書くのだろうか。
36年前に書いた評は、「彼の写真の微妙な情感を見ることができた」と締めくくってあった。「微妙な情感」というのもまた、失礼というか、それこそ微妙な描写である。今なら割り切って「繊細な情感」と書くのかもしれない。とはいえ、「中途半端にみえるフレーミング」や「微妙な情感」といった形容には、そう書くしかなかった当時の解釈が垣間見えるようにも思える。
今回の展示は点数も多い。この街で撮影された写真だけでも100点以上あるという。順路に沿って見ながら、私はある一点の写真を探していた。原稿が掲載されたさいに図版として使われた写真である。
はじめにゆっくりと会場をまわったときには、その一点を見つけることはできなかった。そのことだけを考えて見ていたわけではないので、うっかり見逃したのかと思い、展示されていそうなコーナーを再度見てみた。
やはりない。
ほかのコーナーにあるのかと思い、文字どおり「ぐるぐると何度も会場をまわってしまう」ことになった。
どうも、その一点は展示されていないらしい。
その一点に再会するときこそが、今回の鑑賞における感傷のクライマックスになると予感していたので、またもや拍子抜けしてしまった。
円環が閉じた瞬間に円環から解放されたような気分でもあったが、このままでは感傷の行き場がない。駅からはさらに離れるが、36年前の会場だった市役所まで足を伸ばしてみることにした。
市役所の1階美術コーナーの仮設壁では、ちょうど広報課職員12人が撮った写真で2023年を振り返る写真展が開催されていた。かつて開催されていたのは、この場所だったのだろうか。ここでもまた、覚えているものがなにもなかった。展評には「75%が新住民」と記してあった。かつての新住民も、いまはもうここが故郷になっていることだろう。
所在なく市役所のなかをうろうろしながら、もちろんこれといってやることもないので、JR駅に戻ることにした。行きとは違う道を歩いてみたが、私鉄の味気ない高架の下をくぐり、すっかり変わってしまった街を再確認しただけだった。
36年前の展覧会では、駅前にあったもうひとつの大型百貨店も会場になっていたことを思い出した。そこに行ったところで何も残っていないことはわかっていたが、行かない理由もない。帰る前にいちおう立ち寄ることにした。
ちょうど一階のエレベーターが開いたところだったので、急いで乗り込む。かつて展覧会に開催されていた階のボタンを押そうとしたが、屋上階にも行けることがわかり、そこに向かうことにした。
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