この写真はぺらぺらですね、といったら、写真はすべてぺらぺらでしょう、といわれたことがあった。
うまくいえないが、私がいいたいのは、そういうことではない、と思った。
そもそも、すべての写真がぺらぺらだというわけではない。ダゲレオタイプはこちこちだし、カロタイプはしなしなである。デジタル写真はどうだろう。データにぺらぺらもかっちりもあるだろうか。ぺらぺらの写真でも額装したりアクリル貼りにしたら、ぺらぺら感がなくなるだろう。
もちろん、お互い、いいたかったことはそういうことではなかっただろう。
ぺらぺらというのは、薄っぺらということである。薄っぺらというのは、一般的には悪い意味寄りだろうが、写真についての形容としては、いい意味寄りのこともあるかもしれない。あえて悪い意味寄りの薄っぺらという形容を、いい意味として使うといったらいいだろうか。
とりわけ、写真の表面、表面としての写真、表層的な写真、といった形容をする場合、写真の特徴を強調していることが多い。めちゃ薄く研ぎ澄まされてキレキレというイメージである。
だが、私がいいたかったのは、そういうことでもなかった。
将棋の駒を吹けば飛ぶようなと形容した唄があるが、いうまでもなく、それは将棋の駒をフーフーしてみるということではない。あくまでも、飛ぶようなというたとえである。あるいは、おいらもお前もあいつもひらひらだという「ひらひら」という唄があるが、ひらひらとはなにかと問うてみても、ひらひらとしかいいようがないからひらひらなのである。ぺらぺらというのは、そういったたとえに近かったのかもしれない。
いや違う。私が指していたのは、そういうものではなかった。
ぺらぺらというのは、この写真についていったことであって、この写真に固有の話なのである。当然、ほかにもぺらぺらの写真はあるだろうし、たしかに写真はすべてぺらぺらなのかもしれないが、この写真がぺらぺらであることとは根底的に違う(吹けば飛ぶようなという形容が指すものにもそうした固有性がありうるだろうし、ひらひらという形容が指すものにもそうした固有性はありうるだろう)。
しかし、この写真に固有の話をしておいて、私がいいたいのは、そういうことではないというのは、どこか卑怯である。その場でいうならまだしも、あとになって、こうして、いいたかったことはそういうことではなかったなどと書くのは、なおさら卑怯である。
この写真がぺらぺらであるということには、このように人に卑怯な振る舞いをさせてしまうようなものがあるのかもしれない(今まさに、固有の卑怯さを卑怯さ一般にすり替えたように)。
それにしても、なぜその写真をぺらぺらだと思ってしまったのだろうか。いっそのこと、その写真はぺらぺらではなかったことにしてしまえばいいのだろうか。容易にそうさせてくれないような稀少さがその写真にはあったからこそ、いまだにここに書き綴っているのだろう。
ぺらぺらという形容の隣に、すかすかという形容を置いてみる。すかすかな写真とはどういう写真だろう。すかすかというのは、内容がないということである。内容がないということは、形はあるということだ。写真の形とはなんだろう。ほかならぬ表面、表層のことではないだろうか。
この写真はすかすかですね、といったら、写真はすべてすかすかでしょう、と返ってくることはあるだろうか。あるかもしれないし、ないかもしれないが、ぺらぺらよりはなさそうである。
それはさておき、そもそも、すべての写真に共通する特徴というものはあるのだろうか。そうした特徴がないということこそが、ぺらぺらだということなのかもしれない。
だとしたら、写真はすべてぺらぺらである、ということは正しかったということになる。ただし、その正しさもまた(この写真のように)ぺらぺらであることから逃れられないだろう。
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