大瀧詠一が話していたことで、ずっと気になっていることがある。
大瀧詠一は、関心があるあらゆるテレビ番組を録画していたことで知られていたが、録画した番組を見たらすぐ消してしまう、というのである。
録画というのは見るためにしているのだから、見たら消すのは当然といえば当然なのだが、なんだか腑に落ちない。
私がビデオデッキをはじめて使うようになったときは、まだまだビデオテープも高かったので、後で見そうにない番組は消していた。じっさい、ビデオデッキは録画する前に消去して上書きする仕組みになっていたので、そうした使い方を想定していたのだろう。間違って上書きして消去しないようにするには、ビデオカセットのツメと呼ばれる部分を折るようになっていた。
とはいえ、お金があったら、消したくなかった録画も多かった。どの録画を消去するのか、あるいは新たにビデオテープを買うのか、なかなか悩ましかった。ビデオテープは上書きすればするほど劣化するので、保存したい番組はなるべく新品を使いたいとか、さまざまな要素があったのである。
だんだんビデオテープが安くなると、とにかく録り溜めするようになってくる。消去するかどうかの判断を、先延ばしするようになるのだ。それと同時に、見るかどうかわからないけれど一応録画しておく番組も増えてくる。そして次第にいい加減になり、なにが入っているのかわからないビデオテープも溜まってきて、保存場所に困るようになってくる。
つまり、見るために録っていたはずが、いつの間にか録ること自体が目的になってしまい、録るために録るようになるのだ。そうなると悪循環で、録画することは、どうせ見ないものを録って溜め込む苦役のような行為と化していく。だが、これこそが録画(record=記録)するということの隠れた本質であり、醍醐味ではないだろうか。
タイムシフトという言葉がある。1980年代に、録画という行為の著作権侵害が問題になったときに、ソニーが主張し裁判で認められた論点としても知られているが、要するに、後で見るために録画することを指している。
なにを録画するか選択せずに、後でどれを見るか選べたら、それが一番理想的だろう。複数チャンネルを自動録画し、容量が不足すると古いものから消去する、いわゆる全録レコーダーは、そんな理想を実現したある種の「正解」であり、テクノロジーの進歩によって、タイムシフトという概念を具現化したものだといえるかもしれない。
大瀧詠一は、全録レコーダーが登場する遥か前から、手動でビデオデッキを全録レコーダーのように使っていた、と考えることもできるだろう。録るために録るという悪循環に陥ることもなく、なぜはじめから、そうした活用法の「正解」がわかっていたのだろうか。そこが、なんだか腑に落ちないのである。
大滝詠一は、周年などの節目にリマスタリングを施した自作をリリースしていたことでも知られている。その都度リリースされたリマスタリングが、その時点での「正解」になるのだろうが、結果としては、同じタイトルのさまざまな「正解」が存在することになる。
録画の活用法の「正解」とリマスタリングの「正解」は、関係あるのだろうか、ないのだろうか。この関係に、なにか秘密が埋め込まれているような気もするし、そんなことはないような気もする。それゆえ、冒頭の発言がずっと気になっているのである。
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