写真は繰り返す。繰り返すというまでもなく、つねにすでに繰り返している。
それは大きさを変え、形を変え、メディウムを変え、変化し続けている。
作品と呼ばれている写真ですら、目の前のプリントがどのようなプリントなのか、注釈なしに特定することは困難である。特定できたところで、それを特定することの意味を特定することは、さらに困難だ。
ある写真のプリントがある。そのプリントは、優れたプリンターによるプリントである。それとは別に、作者本人による仮プリントもある。作品としてのそのプリント以前に、初出の雑誌に掲載された写真がある。そのための印刷原稿としてのプリントがあった。紛失されていたと思われていたネガが発見され、大胆なトリミングが施されていたことがわかった。さらにまったく別のトリミングの初期プリントも発見された。そのプリントが誰によって制作されたのかは不明である。
このようなことは、まったくめずらしいことではないだろう。それぞれのプリントの意味を特定することに意味はあるのだろうか。あるのかもしれないし、ないのかもしれない。特定しうるという視点に妥当性はあるのだろうか。あるのかもしれないし、ないのかもしれない。
特定しうるという視点に妥当性があるのかと問うのならば、それを問いかけているこの視点の妥当性も問わなければならないだろう。どちらの視点も、事象を俯瞰し、抽象化していることに変わりはない。
こうして写真は繰り返す。繰り返す写真とともに繰り返す言説を紡ぎつつ、複雑化していく。だが、どれほど複雑化しようと、目の前のプリントは、こう告げることだろう。写真は写真である、と。写真は写真であり、写真は写真であるのだから、写真がどのような写真になろうと、写真は写真なのだ、と。
写真は写真であり、写真は写真にすぎないという具体性に立ち帰り、個別の細部を見つめることはたのしい。
たとえば、同じ写真でも、掲載されている写真集によって微妙にトリミングが違っていたりする。こうした違いは、微妙であればあるほどたのしい。意図せずして生じてしまっている違いであれば、さらにたのしい。どこかで生じたミスらしき違いによって、歴史的な名作がいくつものバージョンに分かれてしまっているのを発見したりするのは、細部を見つめるたのしみそのものかもしれない。
こういった変化と改変、意図とミスの違いはどこにあるのだろう。モノクロをカラーにするのは、明らかに意図的な改変だろうが、カラーをモノクロページに掲載するのはどれに該当するのだろうか。どこかで生じた傷や付着したゴミらしきものを除去する場合はどうだろう。
写真は繰り返す。デジタル時代においては、繰り返す痕跡もなく繰り返す。無劣化で無限に繰り返すことができるのはデジタルデータの特徴だが、ほんとうにそれは変化なき変化なのだろうか。作為や悪意がある場合は問題になりやすいが、ささやかな善意による変化の場合は見逃されていくことだろう。
100回繰り返すうちに、100個のわずかなゴミが1個づつ修正されていくのなら、ゴミははじめからなかったもののようになるだろう。よりよく見えるようにするための、わずかな調整も100回繰り返されたら、まったく別の効果になっていることだろう。
私たちが今日たのしんでいる細部とは、じつは、このような細部なのかもしれない。
正しさも 中くらいなり この細部
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