考へるピント

35 予感

2024/03/04
上野修

東日本大震災の前日深夜に撮った写真がある。
 

ややアレてブレた写真で、写っているのは帰路につく人々のようだ。
 

その写真を見つけたのは、震災からしばらくして写真を見返していたときだと思う。試用していたカメラの高感度ノイズや、望遠域の手ブレ補正をチェックしようとしたのだろうか、なぜ撮ったのか、まったく思い出せない。
 

撮影日時順に写真が並ぶアプリケーションで見ると、当然ながら、その写真の前にあるのは震災前の写真であり、その写真の後にあるのは震災後の写真である。この流れで見ていると、その写真からなんとも不穏な雰囲気が漂っているように感じられてくる。
 

家路に向かう人々も、どことなく不安そうである。なにより私が、嫌な予感を抱きながらシャッターを押しているように思えてくる。さらにいうなら、写っている人も私も、その後に起きるできごとを知っているかのようでもある。
 

もちろん、そんなことがありえるはずがない。絶対にありえないことはよくわかる。よくわかるのだが、にもかかわらず、この写真を見るたびに、同じことを感じてしまう。それどころか、その感じ方が、ますます強くなっていくようにも思う。
 

これはいったいどういうことなのだろうか。
 

この写真の印象があまりに強かったので、逆に、前後の写真を見返すことがほとんどなかった。というより、震災後、意識的には写真を撮っていなかったようにずっと思い込んでいたのである。どんな写真でもいい、震災後にもっと撮っておけば、そのときの気持ちを少しは思い出せたかもしれないのに、と思っていた。
 

ところが最近、ひさしぶりにその写真の後の写真を撮影日時順でまとめて見てみたところ、かなり意識的に撮っていたことがわかった。
 

iPhoneでは、テレビのニュース画面、近所の店の営業中止や販売制限の張り紙などを繰り返し撮っていた。当時使っていたiPhoneは3GSで画質が悪かったため、たんなるメモ撮りという印象があったのだが、よく見てみると、それなりに記録の意図もあったようだ。
 

震災の翌日には、リコー GX200で近所の散歩道をスナップしていた。回りながら180度分の写真も撮っている。いつもと変わりないのどかな光景に見えるが、普段はがらがらの道路が渋滞している。
 

高倍率ズーム機のキヤノン PowerShotでは、それまで超望遠で定点観測していた被写体を、引き続き同じように撮っていた。これこそ、震災と関係ない写真でも撮っておくという行為でもあっただろう。
 

なぜこうした写真を撮っていたことも忘れていたのだろうか。
 

震災のころの写真を見返すことに無意識の抵抗があった、などといったら、きれいごとにすぎるだろう。ほかの写真もそうであるように、たんに見返さなかっただけのことかもしれない。だとすれば、なぜ最近見返してみたのだろうか。
 

おそらくそこには理由はない。理由はなくても、見れば写真は視覚に飛び込んでくる(視覚と限定することには疑問があるが、ここではそれはおいておこう)。飛び込んできたら後戻りできない(たとえば、見ないという行為は、写真が確かに存在することを知っているからこそ可能なのだ)。見ることに理由はないが、見ればあれこれと見た理由が生まれ、それらしい解釈が紡がれていく。
 

ここで書き連ねてみたことも、それらしい解釈のひとつということになるのだろう。このような、写真のどうとでもいえてしまう性質については、さんざん考察されてきたので、ここではそれもおいておこう(とはいえ、考察が充分とはいえないように思えるのだが)。
 

興味深いのは、こういったあれこれを踏まえて、再度その写真を見てみても、やはり私は誤読を続け、補強し続けてしまうことである。
 

——これはいったいどういうことなのだろうか。

 

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