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考へるピント

31 コンテンポラリー

2024/01/08
上野修

コンテンポラリーという言葉がなにを指すのか、年々ぼやけつつあるのかもしれない。
 

たとえば、近代(モダン)美術館と、現代(コンテンポラリー)美術館の違いを思い浮かべてみてもいい。現在、そこで展示されるものに、明確な区分があるわけではない。近代美術館に現代美術と呼ばれているものが展示されることもあるし、その逆もあるだろう。
 

そもそもコンテンポラリーというのは、時代区分ではない。それは、同時代の動向や、今日的なものを指す言葉にすぎなかった。今日のものは今日的なのだから、今日的というのは、なにもいっていないに等しい。にもかかわらず、コンテンポラリーという言葉が広がっていったのは、第二次世界大戦後の新しさを、それ以前の新しさから切断したいという気分が共有されたからかもしれない。
 

それ以前の新しさというのは、いうまでもなくモダン(近代)である。モダンもまたたんなる時代区分ではない。それは、自らを更新し続ける運動性でもある(それゆえに、時代性にウェイトが置かれれば近代と訳され、運動性にウェイトが置かれれば現代と訳される)。
 

モダンは運動による更新である。運動が途絶えれば過去のもの、クラシックになるだろう。コンテンポラリーは自動更新である。今ここのものは、自動的にコンテンポラリーなものになる。では、今ここのものでなくなったものは、どうなるのだろう。それは、たんに忘れられるのである。モダンがクラシックになる場合はあるが、コンテンポラリーがモダンやクラシックになることはない(ややこしくなるので、ここではポストモダンのことは置いておこう)。
 

第二次世界大戦後にコンテンポラリーがはじまるのだとすれば、すでに半世紀以上の時間が経っていることになる。もちろんそこには、忘れられることがなかったコンテンポラリーなものがある。では、忘れられたコンテンポラリーと、忘れられることがなかったコンテンポラリーの違いはどこにあるのだろうか。
 

その違いは存命性にある、と私は思う。作り手があたかも存命である感触があるかどうか。存命性というのは、奇妙な言葉である。この奇妙な(そしてもしかしたら不謹慎な)言葉をあえて使ったのは、じっさいに存命であるかどうかが関係ないわけではないが、かならずしも存命である必要があるわけでもないからだ。作り手をなんらかのかたちで構成できればこの存命性は成り立つので、その意味で、これは超越論的存命性である。
 

たとえば、写真家ロバート・フランクは、2019年に他界した。しかし、写真表現におけるコンテンポラリーの記述のなかでは、生き生きと生きており、はっきりと存在している(かもしれない)。これが、超越論的存命性である。では、1989年に他界した写真家ロバート・メイプルソープはどうだろう。1971年に他界した写真家ダイアン・アーバスはどうか。などと考えてみると、その感触を実感することができるかもしれない。
 

コンテンポラリーという言葉は、いつまで使われていくのだろうか。それは、すっかり定着したからこそ問われることがないのか、あまりにもぼやけているので問うことができなくなっているのか。それがなんであるのかわからなくなっていても(だからこそ)、作り手はそこで超越論的存命性を紡いでいくのだろうか。
 

今ここは 冥土の旅の一里塚 今ここにあり 今ここになし

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