最近しばしば、こたつ記事が話題になっている。
しかし、この言葉、そもそも通じているのだろうか。
こたつ記事とは、こたつに入ったまま取材もせずに記事を書き上げてしまう、お手軽な記事のことだが、その姿をイメージするのは難しい。
もともとは、寒空の下、凍えて取材をしている記者もいるなか、ぬくぬくと楽をしているというイメージなのかもしれない。
だが、たとえば、寒空の下ひたすら待っている記者というのは、昭和も昭和な存在だろう(今もいたらごめんなさい)。映画なら、足元には吸い殻がたくさん落ちているシーンだろうが、今の時代、ポイ捨てが論外だし、喫煙もダメである。不審者がずっといると通報されるのがオチだろう。
こたつがない家庭も多くなった。もしあったとしても、こたつに似合うのは、どてらを羽織り鉛筆なめなめ記事を書く姿である。鉛筆なめなめに至っては、そんなことをやっている人を見たことがない。
今だったら、どういう姿になるのだろう。キーボードをパチパチだろうか。人さし指でコツコツという表現もあるようだ。場所はどうだろう。仕事をサボって、カフェあたりだろうか。鉛筆なめなめこたつ記事ではなく、人差し指でカフェ記事な時代なのかもしれない。
と、どう表現するかはともあれ、こたつ記事という言葉が通じなくなった今の時代に、こたつ記事が増加しているのは皮肉である。
私はラジオをよく聞いているが、有名人のちょっと面白い発言は、すぐに書き起こされて、ネット記事になってアップされている。これが今日のこたつ記事の、ひとつの典型である。
ここだけ切り取ってネット記事にするなよ、絶対にするなよ、というトークが、数分後にアップされたりする。すると、番組放送中にその記事を見て、やっぱり書き起こししやがった、と言い返したりする。こうなると、こたつ記事というか、お約束のこたつラリーというべきかもしれない。
インターネット時代ならではのメディアのあり方ではあるが、これが夢見た未来だったのだろうか、と思ってしまったりもする。
ラジコを聴き聴き、キーボードをパチパチはまだしも、X(旧Twitter)を検索してそれらしいコメントを探し、2、3個コピペして、ネットではこんな声が上がっている、と書き添えるだけのこたつ記事は、あまりにお気軽すぎる気がする。
いや、そういってしまっていいものだろうか。
たとえば評論やエッセイは、一生懸命取材したからといって、それが質につながるものでもない。英語にはアームチェア研究者、アームチェア評論家といった、机上で理屈を紡ぐだけの者を揶揄する言葉があるが、じっくりと考えるアームチェア思考、こたつ思考も、ときには重要だろう。
とはいえ、カメラや写真をめぐるあれこれを、こたつ記事ですませるのは難しいように思える。レンズを持っていないのに、Xからコメントを数個コピペして、このような描写らしいですがいかがでしょう、と書いたり、写真を見ていないのに、Xからコメントを数個コピペして、賛否両論いろいろな意見があるようです、と書いたりすれば、あっという間に非難されそうである。
こう書いていてふと思い浮かんだが、冬の長い夜に、こたつに入りながら、カメラやレンズをいじって、写欲を膨らませている光景などは、なかなかいいものだったと思う。暗室にこもって、けっきょく満足するプリントが一枚も焼けなかったというような光景も悪くない。
現在ならば、机に向かって一生懸命にカメラを設定したり、フォトショップで加工している姿になるのかもしれないが、デジタル時代の光景は、なんとも様にならない。
そういえば、昔は、お座敷暗室や押入れ暗室という言い方があった。こたつフォトショップはまだしも、お座敷フォトショップや押入れフォトショップになると意味不明だろう。
こんなふうに徒然に考えていると、こたつ記事というイメージには、まだかすかにアナログ時代の身体性が残っているように感じられてくる。世の中がこたつ記事だらけになり、できごとから身体性が消えていくころには、こたつ記事という言葉自体がすっかり消えているのかもしれない。
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