コロナ禍のはじめのころ、こういうときにやらなくては、もうやることはないだろうと思い、ずっと気にかかっていたリバーサルフィルムのスキャニングに手をつけた。
なぜかずっと持っていた、というか、捨てようと思わなかったスリーブのポジが60本くらいあったのである。コダクロームで撮影していたので、ちょっと特別な感じがあり、もったいなくて捨てなかったのかもしれない。
おそらく2000年頃までは、なんとなくフィルムを持っていて、パソコンが高性能になるとともに、フィルムのスキャニングができなくもないスキャナを手に入れてから、いつかはスキャンしてデータ化しようと思うようになったのだろう。
1980年代に撮影して、現像が上がってきたときには、幾度となく見返してセレクトしてカットし、マウントに入れていた。マウントに入れたのは、200点くらい。その結果、6コマが揃っていないポジもあったのも、スキャンを億劫に感じていた理由だと思う。
一、二年に一度くらいだろうか、たまに取り出しては、ちょっと見て、カビ防止剤を交換して、またしまう、という行為を繰り返していたが、デジタル時代になってからは、気まぐれに数コマをテスト的にスキャンするという行為がそれに加わった。
手持ちのフラットベッドスキャナーでは、画質もいまひとつなうえに、スキャニングに時間がかかる。6コマ揃っていれば、少し目を離して別のこともできるが、数コマやマウントのポジの場合には、待つには長く、なにか別のことをするには短い空き時間が、断続的に続くことになる。とにかく耐え難く退屈な作業だ。
そんなこともあり、手をつけない理由はいくらでも思いつくので、ぐずぐずとスキャニングを先延ばしにしているうちに、20年以上経ってしまったわけだ。撮影してからは、35年以上経ったことになる。
その間私は、そのコダクロームの写真を、しばしば思い出し、ときに懐かしく、ときに感傷にひたったりすることができた。撮影した場所の湿度や匂いを思い出すことすらあった。たいしたカットがないことはわかっていたが、どうでもいいようなカットにも、さまざまな感情が織り込まれていると思っていた。
スキャンしたデータを見返してみると、2020年5月から7月にかけてスリーブをスキャニングし、7月から8月にかけてマウントをスキャニングしていた。思ったより時間がかかっている。スリーブのポジ30本ほどをスキャンするまでが一番辛く、あと半分になってからは、ここでやめたらここまでの我慢が無駄になると思い、淡々とやっていた気がする。スリーブが終わったら、セレクトしていたマウントをやらないわけにはいかないだろう、という義務感のようなものが芽生えてきて、なんとかすべてスキャンすることができた。
その後、スキャンしたデータを補正して色合いを整えたり、新たにテーマを見つけてセレクトしたり、あるいは、以前少し書いたように撮影した場所をGoogleストリートビューで探してみたりしていたが、すぐに飽きてしまった。それだけでなく、コダクロームの写真に潜んでいたはずの、感傷や感情を思い出すことも、まったくなくなってしまった。というより、そういうポジを持っていることをまったく思い出さなくなったのである。
これはいったい、どういうことだろうか。
コダクロームの写真は、わたしの記憶から消えてしまったのだ。もちろんまだ捨てたわけではないので、物質としては存在しているのだが、存在していても存在していなくても変わらないようなものになったのである。
物質としては存在しているフィルムには、いま、なにも残ってないような気がする。写真の物質性というようなものがもしあるとするなら、それは、むしろ消えた写真にこそあったのかもしれない。消えた、という現象こそは、その証左であろう。
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