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考へるピント

37 公園のカッパ

2024/04/01
上野修

こんな光景を見た。
 

すれ違ったその人物は、真冬だというのに、ねっとりと湿り気を帯びていた。その湿り気には既視感があった。
 

その既視感とは、匂いだったのかもしれない。既視感が匂いというのも奇妙だが、疲労した現像液のような色合いと匂いを感じたのだった。
 

暗室から出てきたのだろうか、だったら現像液よりも停止液の酢酸の匂いがしてよさそうだ。大伸ばしをしていて、現像液に素手を浸すようなことをしていたにしても、現像液のような湿り気を帯びることなどないだろう。
 

もしかしたら、その人物は自分自身を現像しようとしていたのかもしれない。現像される自分自身におびえて、現像液から抜け出してきたのかもしれない。
 

そうだとしたら、定着液に入らなくては、カブってしまうではないか。
 

あいにく今日は、雲ひとつない晴天である。午後の斜光線に晒されてしまっていたので、もう手遅れかもしれない。
 

振り向いてその人物を見ようとしたが、逆光でよくわからない。あわててアイフォーンを取り出し、望遠を最大倍率にして一、二枚撮ってみたが、ソラリゼーションのような輪郭が写っただけだった。
 

やはり、もう手遅れかもしれない。
 

そう思ったら、急に光が恐くなり、寒気がしてきた。私も感光してしまうかもしれない。そうしたら現像されるしかない。
 

展覧会へ向かうところだったが、暗闇を求めて映画館に行くことにした。アイフォーンで最寄りの映画館の空席を探す。なぜかとても冷静で、どうせ見るなら一番話題の映画を、できるだけよい席で見たいと思いつつアプリを操作した。
 

ちょうどいい時間で予約ができた。ふたつしか席がない端の席で、角度的にやや観にくいが、隣に誰も来なかったので落ち着いて観ることができた。というより、スクリーンを見つめながら落ち着くことができた。その映画は、主要な登場人物がひとりしかいなかったので、混乱することがなかったのもよかった。
 

映画館から出ると、すっかり日が暮れていた。少し冷たい空気に触れてから帰ろうと交差点の信号を渡り、その人物とすれ違った道に戻った。その道沿いにある大きな公園に入ってみた。
 

こうして歩いてみると、なんのことはない、今日もまたありふれた日常として終わっていくのだろう、と思えた。澄んだ冬の空を見上げると、満天の星とまではいえないまでも、たくさんの星々が見えた。
 

東京の夜空でもこんなに星が見えることもあるのか。星座アプリを持っていたことを思い出し、夜空にアイフォーンをかざす。すると、通りかかったご婦人たちが、スマホでも星が撮れるんですね、と話しかけてきた。
 

ええ、そうなんですよ、最近はナイトモードというのがあって、夜もきれいに撮れてしまうんですよ、と、つい話を合わせてしまった。なりゆきで星空を撮ってみたら、ほんとうにきれいに撮れてしまい、ご婦人たちはもちろん、私も驚いた。
 

ごきげんよう、私たちはゲンゾー沼の方へ、とご婦人たちは去っていった。
 

ゲンゾー?
 

ああ、そうだ。この公園には、現像沼と定着沼の二色沼があるのだった、ということを唐突に思い出した。すると目の前にあるのは定着沼だろう。
 

目の前の光景にカメラを向けると、ナイトモードで2秒の露出だった。くっきりと写った定着沼をよく見てみると、右下に人物がいる。ピンチアウトして拡大していくと、日中にすれ違った人物が、ずぶ濡れになって写っていた。
 

さらに拡大していくと、その人物はまるで肖像写真のような表情をしている。それはかつて会ったことがある気がしてならないイメージだった。
 

しかし、そんなはずはない。
 

定着されたその人物の表面は、もはやヒトではなく、どう見ても、強度が満ち満ちたカッパだったからである。

 

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