ときどき、ふと思い出しては、調べていることがある(写真関係ではない)。
ネット上にはほとんど情報がないのが興味深いところで、言及されている箇所がありそうな本を図書館で閲覧したり、手元にある資料的なものを引っ張り出してみたりしるうちに、断片的な事柄の関連が浮かび上がり、パズルのピースがつながっていくのが面白い。
少し調べてはすっかり忘れ、また思い出して少し調べるという感じなので、パズルが完成することはないだろう。それ以前に、完成させるための最低限のピースが現存しているのかどうかもわからない。
というのも、わたしの手元にあるいくつかの資料は、どうも稀少なものらしいからだ。たとえば、ある文集的なものは、図書館などにも収蔵されていないようだし、オークションなどに出回った形跡もない。だからといって、貴重なのかどうかわからないが、おそらくほとんど残っていないであろうことは推察できる。
そうした資料のなかの自伝や評伝的なものを読んでいると、伝え聞いていた人柄とはまったく違っていることがある。自伝や評伝は美化される傾向があるし、伝聞は面白おかしいエピソードが誇張される傾向があるにしても、同じ人物とは思えないくらい差がある。
伝聞はいつかフェードアウトしていくかもしれないが、資料はいつまでも残っていく可能性がある。たった数冊だろうが、最後の一冊だろうが、それが残っていれば、参照され続けることがある。
そう考えたとき、書かれたものというのは、不気味で恐ろしいものだな、と思った。
逆に、なぜいままで恐ろしいという感覚を抱かなかったのか、不思議といえば不思議である。ほとんど私に関係ないような資料がなぜか手元にあり、そんな私がパズルのようにあれこれ繋ぎ合わせているからかもしれない。
資料と伝聞を混ぜ合わせて何らかのストーリーを作るのは、いささか恣意的にすぎるかもしれないが、ストーリーというのはそういうものでもあるので、これが恐ろしいとは思わない。
それよりも、いずれ私がこのことについてすっかり関心を失い、気まぐれに資料的なものを引っ張り出したのと同じように、気まぐれに持っていることも忘れるかもしれない(これがもっともありそうなことでもある)ことを、恐ろしいと思ったのかもしれない。
これは、貴重な資料が云々ということではない。そうではなく、気まぐれによって残ったり、消えたり、再発見されたりするという偶然性が恐ろしいのである。
手元にある資料のなかには、写真もある。添えられたメモや、文集のなかの写真などを参考にして、ある程度人物を特定できることもあるが、私が顔認識が苦手なこともあって、誰が写っているのかわからない写真も多い。
それはたしかに、過去、どこかで誰かが(セルフタイマーも含め)誰かを撮った写真で明らかなのに、それが誰なのかはわからないわけで、これも不気味である。
この不気味さは、博物館などで展示されている、手紙、手記、写真などを見たときに感じる違和感、公の場所で人目に晒されることなど、まったく前提にしていなかったであろうものを見ている違和感に似ている(このことの是非を問題にしようとしているわけではない)。
書かれたもの、写されたものというのは、かならず時間と人に結びついている。遡ることが可能かどうかは別として、ある時に、誰かが書いたり、写したりしたものであることは、たしかだからだ。
だからこそ、偶然性が生じる。デジタルデータには、おそらくそのような偶然性がない。偶然性を恐ろしいと感じたのは、すっかりデジタルデータに慣れきっている今日だからなのかもしれない。



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