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考へるピント

78 ならでは(続 テンピョウ)

2025/10/27
上野修

雑誌時代、レビューコーナーとしては、展評(テンピョウ)と書評(ショヒョウ)が定番だった。なぜふたつあるかというと、それぞれ趣向が違う発表媒体だからである。
 

展評には展覧会ならではの要素を踏まえることが求められ、書評には本ならではの要素を踏まえることが求められる。だがこれは、写真ならではの事情かもしれない。というのも、文字の本なら書評しか必要ないし、美術なら展覧会がメインになるからだ。
 

写真というメディアの特性を考えるなら、書評、つまり写真集評の方がスタンダードになるような気がする。なぜなら、写真は複製芸術であり、印刷物として見ることに違和感がないからである。加えて、本ならレイアウトや順番を固定することができるし、読者がそれなりに自由に見ることもできる。そして、これが写真集ならではの要素になるだろう。

 

では、写真展ならではの要素というのは、どのようなものになるだろうか。すぐに思いつくのは、プリントサイズを自在に変化させインスタレーションすることができる、ライティングなども工夫できる、プリントのオリジナリティを見せることができる、といったライブ的な要素である。ライブ的な要素を拡張していくと、スライドプロジェクションやディスプレイで、静止画や動画を見せるといった要素を加えることができるかもしれない。
 

しかし、あまりに拡張しすぎると、美術や映像といった別のカテゴリーになってしまうおそれもある。もちろん、なってしまっても何の問題もないが、写真表現としてはチャレンジングでも、美術や映像としてはありふれたものにならないという保証はない。
 

そういったことは別にしても、複製性とライブ性は、そもそも相入れないところがある。写真のプリントを一点しか作らないのと、美術作品が一点しかないのとでは、根本的に意味が違う。どれほど写真展ならではの空間を作ろうとも、その空間を再現することも難しくなるとは限らない。
 

展評の書き手は、写真ならではの要素と展覧会ならではの要素をうまく織り込むことの困難として、このような相入れなさに出会うことになる。どこでも同じ写真を見ることができてすごい、とは書かないだろうし、このような展示を見る機会は二度とない、と無条件に書くことも難しいだろう。
 

とはいえ、見ているのは人間なので、人間側の変化を織り込んでいくこともできる。東京で見た写真展を九州で見たら違って見えたとか、気になることがあったので二度三度と見に出かけたとか、あまりにすばらしくて言葉が出てこなかったとか、雨の日に似合う写真展だったといった類の物語を、展示の物語として綴っても不自然ではない。
 

もっとも、これらの物語は、写真集に関して同じようなことがいえないわけではない。旅先のカフェが似合う写真集だったとか、毎日のように見ても新たな発見がある写真集であるとか、この写真集だけは言葉にできないとか、深夜にスタンドの灯りで見たら心が揺さぶられた、といった物語も不自然ではあるまい。
 

複製芸術という側面を考えるには、音楽と比較してみるといいかもしれない。音楽の場合も、CDやサブスクならではの楽しみ方と、ライブならではの楽しみ方があるが、両者が相入れないわけではない。それはなんといっても、音楽のライブ性が、即興的な実演によって成り立っているからである。
 

こう考えてみると、会場に作者がいて会話してくれる在廊というシステムや、トークショーなどのイベントが開催される理由がわかる気がする。これこそ、展覧会ならではのライブ性だからである。ただし、それを展評の主なトピックとして書いてしまうと、評論とは違ってしまうだろう。インタビューベースのプレビューやレビューが現在の主流である理由は、このあたりにあるのかもしれない。

 

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