先日行った現代画家の大規模展には、代表作と呼ばれるようなカラー写真作品も展示されていた。その作品は、退色がはじまっていたのだが、にもかかわらず、ごく普通に、平然と展示されていることに感動してしまった。
現代作家の退色している写真作品を見る機会は、あまりないように思う。あるのかもしれないが、誰でも知っているような有名な作品がはっきりと退色していることは、珍しいのではないだろうか。
もちろん、家庭のカラー写真が退色しているのは、よくあることである。しかし、作品として売買したり収蔵したりするために制作されたプリントは、退色しないように配慮されているので、一目でわかるような劣化が生じていることは滅多にない。
その作品が退色しはじめていたのは、用いられている写真が、いわゆるサービスサイズのプリントだったからなのかもしれない。街のDPEショップなどでプリントした写真は、クオリティにばらつきがある。印画紙に問題があったのか、処理に問題があったのか、その後の保存に問題があったのかわからないが、いずれにせよ、さらに退色しそうな色合いだった。
著名な作家の代表作とは、つまり、幾度となく見たことがある作品ということであり、この場合の見たことがあるというのは、作品集やネットといった複製物であることがほとんどだろう(もちろん写真も複製物なのだけれど)。そうした複製物は、たいてい退色していない。印刷が経年劣化している場合もあるだろうが、写真のような退色ではない。
記憶では真新しい色彩だった作品が、展覧会では退色している。永遠に不変だと思っていた作品が、年月を生きるなかで、静かに色合いを変えていた。——それが、当然のことであるかのように。
ヴィンテージプリントという言葉がある。それほどメジャーな言葉だとは思わないが、デジタル大辞泉には「ビンテージプリント」という項目があり、「写真作品の中で、写真家自身または専属のプリンターが撮影後ただちにプリントし、写真家が署名したもの。」と記されていた。この条件に当てはまるプリントがすべてヴィンテージになるかというと、そうでもないだろう。これはまったく見たことがなかった、この機会を逃したらなかなか手に入らないだろう、というような感触があるものが、じっさいにヴィンテージと呼ばれているような気がする。
この意味で、大規模展で見たカラー写真作品は、まさにヴィンテージ中のヴィンテージであった。その展示の機会を逃したら当分見ることができないものだろうし、これから退色すればするほど、貴重な作品になっていくだろう。作品集やネットとの色彩の差は、ますます広がり、ヴィンテージ感が高まっていくことだろう。
これを書いていて、海外で、ある写真家のご遺族を訪ねていったときのことを思い出した。見せてもらった写真は無造作に丸められており、それを広げると、フェロタイプがかけられた光沢の表面が、目の前でポロポロと剥がれていった。しまうときにも、また剥がれていく。
ご遺族は、そんなことはまったく気にせず、次々と写真を見せてくれたのだった。ヴィンテージプリントという言葉も知らなかったころだが、あれは鮮烈なヴィンテージ体験だった。
あの写真はいまごろどうなっているのだろうか。
PCT Membersは、Photo & Culture, Tokyoのウェブ会員制度です。
ご登録いただくと、最新の記事更新情報・ニュースをメールマガジンでお届け、また会員限定の読者プレゼントなども実施します。
今後はさらにサービスの拡充をはかり、より魅力的でお得な内容をご提供していく予定です。