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考へるピント

11 ワープロの話 その2

2022/11/14
上野修

はじめてワープロを買ったのは、おそらく1987年、東芝のRUPO JW-R55Fという機種で、ディスプレイはモノクロ液晶40字×4行表示、うちガイド行1行、つまり文字を打てるのは40字×3行分だった。
 

1988年には連載原稿を書くようになっていたので、文字がたくさん表示されるワープロが欲しくなった。この時期にはすでに、40字×10行表示のJW-70シリーズ、40字×20行表示のJW-90シリーズが出ていたが、高くてなかなか手が出なかったのだと思う。
 

迷っているうちに、1989年、ノート型で持ち運べるJW-90Bというモデルが出た。定価は148,000円だったようだが、10万円を切るようになり、欲しくてたまらなくなって買ってしまった。ノート型だということは、プリンタが付いてない。現在だったら、プリンタはなくてもいいと考えるところだろうが、当時はそうではなかった。プリントしないと、原稿を渡すことができなかったのである。
 

NECのパソコン用のプリンタを買い、接続ケーブルを買った。パソコン通信用のフロッピーディスクとモデムも買った。モデム(電話回線とパソコン通信をつなぐための装置)はオムロンのポータブルタイプ、9V角型電池を使うもので、2万円弱だったと思う。1,200bps、あるいは600bpsというスピードだったか、通信で文字が流れてくるのが読めるくらいの速さだった。なんやかんやで出費がかさんだが、ワープロを持ち運びできて、通信もできるというのは、未来感があった。
 

このように、持ち運べるワープロを買ったものの、じっさいに持ち運んだのは数回、そのうち、出先で原稿を書いたのは1、2回、外でパソコン通信を使ったことは1回もなかった。おそらく本体が2kgくらいあり、バッテリーのもちも悪く、バックライトもないので見にくかったからである。電話回線と接続するための音響カプラという受話器に密着させる装置があったような時代で、出先で電話回線に接続するのも容易ではなかった。
 

ワープロでワードをプロセッシングしながら書くようになると、ワープロがないと書けないようになる。機械がないと書けないというのは、いつでもどこででも書ける紙とペンに比べ、ものすごく不自由である。それゆえ、なんとか機械を持ち運べないかと工夫するようになるのだが、荷物がどんどん重くなり、さらに不自由になっていくわけだ。この不自由は未だに解決していないのではないだろうか。こう考えた場合、テクノロジーの進歩は、思いのほか遅々としている。
 

インターネットが普及する前まで、原稿というものは、編集者に会って直接渡すものだった。電話をしてアポをとって、目の前で読んでいただき、感想をうかがうものだった。ファックスが登場してその必要がなくなっていったが、急ぎの場合以外は、直接渡す習慣が続いていたように思う。ワープロ専用機の主な用途は清書や書類作成であり、手書きの原稿が、プリントアウトした原稿に変わっただけだったのである。
 

ワープロ専用機の保存媒体は、3.5インチのフロッピーディスクで、データは各社の独自形式で互換性がなかったが、じょじょにオプションや内蔵機能で、汎用形式のMS-DOSテキストに変換できるようになっていった。そのころになると、プリントアウトした原稿とフロッピーディスクを編集者に渡すこともあった。稀に、パソコン通信で原稿を送信することもあった。
 

昔、ファックスが届きましたか?とか、メールが届きましたか?とか、いちいち電話がかかってくるという笑い話があったが、どちらも常時チェックしているものではなかったので、あながち無駄だともいいきれなかった。けっきょく、アポをとって、直接受け渡しするのが一番確実、という感覚だったのだと思う。
 

持ち運べるが、持ち運ばない、なんとも中途半端なJW-90Bの次に買ったのは、ギザギザが目立たないアウトラインフォントを搭載したJW-95シリーズだった。オプションでゴシック体を使うこともできて、DTP(デスクトップパブリッシング)も可能というのが売りになっていたと思う。このあたりになると、かなりきれいな文書を作れるようになった。前回書いた、ポストカードなどの版下、案内文、キャプションなども、見栄えのいいものを自分で作れるようになっていった。
 

だんだん思い出してきたが、外付けでソニーのデータディスクマンを接続し、電子辞書を使ったりもした。これもほとんど使わなかったように思う。機能としてできるということは、往々にして、やってできなくもないということであり、快適に使えるということからは程遠い場合も多いのである。

 

しばらくJW-90Bも持っていたが、まったく使わないのでソフマップに持っていったら、1000円とか3000円とか、そういう値段で売れた。パソコンが急速に普及していって、ワープロが衰退していった時期だったのかもしれない。
 

ちなみに、東芝のワープロRUPOの最後の機種は、1999年発売、2000年に製造終了となったJW-G7000で、カラーハンディスキャナやスマートメディアスロットを搭載した、高機能のモデルだった。このころのワープロ市場はすっかり縮小していて、2000年の年間販売台数はピーク時の10分の1になっていたという。私がパソコンに移行したのは、おそらく1998年か、1999年ころだった。
 

こう振り返ってみると、意外と長い間、ワープロ専用機を使っていたことに驚く。そのワープロ専用機の世界も、いまは影も形もない。

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