top コラム考へるピント62 第二の撮影者(続 押切)

考へるピント

62 第二の撮影者(続 押切)

2025/03/17
上野修

津軽三味線は、弾くものなのか、叩くものなのか、という問いに対して、ある人は、弾いて叩いて叩いて弾くものだ、と答えたという。
 

この答えに倣って考えるなら、シャッターは能動的に切るものか、受動的に押すものか、という問いに対しては、切って押して押して切るものだ、と答えればいいのかもしれない。
 

とはいえ、弾くものとして聴くのと、叩くものとして聴くのでは、大きく受け取り方が違ってくるかもしれないが、シャッターの場合は、ほとんど撮る者の意識の問題であって、見る者にはあまり関係なさそうである。
 

撮る者の意識の問題、ということは、見る者との直接的な関わりが薄いだけでなく、撮る者の行為とも直接的な関わりが薄い、ということになるだろう。
 

わかりやすくするために、あえて図式化するならば、そこには撮影を行う第一の撮影者(撮影実行者という言い方もあった気がする)と、撮影を意識化する第二の撮影者がいることになる。
 

第二の撮影者が、第一の撮影者にささやく。
 

——思いを込めて瞬間を見極めその指を下ろしシャッターを切るべし。
 

——心を無にして自ずとその指がシャッターを押す瞬間を待つべし。
 

前者では第二の撮影者が主であり、後者では第一の撮影者が主であるように思える。しかし、前者では第二の撮影者が指示したのちに第一の撮影者に一体化していき、後者ではあくまでの第二の撮影者が第一の撮影者を動かし続けていると捉えることもできるだろう。
 

撮影行為を規定するのはあくまでの第二の撮影者であり、撮影を行うのはあくまでも第一の撮影者である、と整理してしまえば、このややこしさから抜け出すことができるような気もするが、そうすると今度は、ひとりの撮影者のなかに役割分担したふたりの撮影者がいることが常態化するという矛盾を抱え込むことになる。
 

つねにふたりの撮影者がいるということは、三人目が登場しかねないということでもああり、第二の撮影者にささやく第三の撮影者、第三の撮影者にささやく第四の撮影者……、n番目の撮影者にささやく……、と撮影者が無限に増殖していく可能性があるのだ(まるで船頭ばかりで混乱している現場のように、あるいは、作品の批評に批評がこだましていく言説のように)。

 

どうも、どこからどう考えて見ても、もつれてこんがらがってしまうようだ。
 

なぜなのか。
 

冒頭の話に戻ってみると、弾くにしても叩くにしても、そこには確固たる行為があるが、それに比べて、シャッターを操作して撮影するという行為は、あまりに儚い。良くも悪くも、撮っている〈だけ〉であり、そこから生まれる写真とのつながりが、あまりに朧げなのである。
 

もしかしたら、シャッターを押すか切るかで迷う押切問題の核心は、この〈だけ〉性にあるのかもしれない。
 

そうだとするなら、ここまで綴ったあれこれは、駄弁にすぎなかったということになる。そうかもしれないが、それはおそらく、吹けば飛ぶような〈だけ〉性を膨らませるためには、欠かせないものでもあるのだろう。
 

〈だけ〉性を煙に巻くファンタジー(たかが……、されど……、切って押して押して切って……)。
 

〈だけ〉性の特徴は〈だけ〉性だけに追体験が容易なことである。まるで関係なかったような見る者がn番目の撮影者として追体験しているのは、このファンタジーなのかもしれない。

 

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