Photo & Culture, Tokyo
コラム

考へるピント

86 なぜはた

2026/02/16
上野修

「なぜはた」をご存知だろうか。
 

30万部を超えるベストセラーになっている新書、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』のことである。
 

この興味深いタイトルに便乗して、カメラや写真をめぐって、「なぜはた」はどのくらい成り立つのか、考えてみたい。
 

「なぜ働いているとカメラが買えてしまうのか」。これは当然すぎるだろう。「なぜ働いているとカメラが買えなくなるのか」。忙しくてカメラどころではなくなることもありそうである。
 

「なぜ働いていないとカメラが買えないのか」。これも当然である。「なぜ働いていないのにカメラが買えてしまうのか」「なぜ働いていないのにカメラを買ってしまうのか」。これは問題だろうが、ありがちな話のようにも思う。
 

「なぜ働いていると写真が撮れなくなるのか」。「なぜ働いていても写真が撮れるのか」。これはどちらもアリな気がする。撮れるものを撮れば撮れるわけで、気の持ちよう次第であろう。
 

「なぜ働いていないと写真が撮れなくなるのか」。「なぜ働いていなくても写真が撮れるのか」。こちらも気の持ちようの問題で、どちらもいえてしまうだろう。
 

要するに、働いていてもいなくても、カメラを買ったり買わなかったり、写真を撮ったり撮らなかったりできるわけで、このあたりのユルさが写真愛好の特徴のようにも思える。
 

とはいえ、昔も今も、カメラや写真にはお金がかかる。撮っても撮っても終わりがなく、またまた撮るのだから終わりがない。
 

このあたりの悩みを考えるとき、いつも思い出すエピソードがある。土門拳の『写真作法』に収録されているエッセイ、「農林技官八木下弘の場合」の、次のようなくだりだ。

 

 お袋さんもこどもさんも寝静まった夜更け、手製の押入暗室から出て来た八木下君が、「印画紙が切れた」とつぶやいた。まだ引伸しがうまくいかないうちに、印画紙がなくなってしまったのだった。奥さんにぜびった金で、今日、役所の帰りしなに一打買ってきたばかりだった。四切の印画紙は半打一袋が三百二十円、一打では六百四十円だ。しかし、一打ぐらいの印画紙は、二、三枚のネガを引伸すうちに、一時間で使い切ってしまうのが普通だ。「そんなことをおっしゃっても、もうこれ以上写真に回せるお金はありませんわ」と、奥さんは言った。それは八木下君にもわかっている。もうこれ以上切り詰めようはないのだ。薄暗い電燈の下で八木下夫妻は悲しかった。フト、奥さんが言った。「あなたはたばこを吸っているけれど、それをおやめになったら……」。なるほど八木下君の指の間には、ピースがゆらゆらと煙りを上げていた。そうだ、まだ切り詰めるものはあったのだ。その日以後、八木下君はたばこをやめた。(昭和三十二年 未発表)

 

なぜこのエピソードが印象に残っているかというと、やけにあっさりした話だからである。もう少し葛藤があってもよさそうなものだが、このあっさりしたところが写真っぽいな、と思うのだ。
 

家族の理解が乏しく写真を控えるようになったり、たばこをやめずに印画紙を買える範囲で引き伸ばすことにしたり、なんなら、たばこがやめられないので写真をやめたり、やっぱりだらだらたばこも写真も続けたり、どの方向にもいけてしまうのが、写真愛好なのではないだろうか。
 

『写真作法』には、「カメラは安物で結構だ ——メカニズムとヒューマニズム——」という、カメラの価格をめぐるエッセイも収録されている。

 

 カメラ・ブームといわれる現象の中で、一番困った問題は、みんながみんな身分不相応の高いカメラを欲しがることだ。そのために無理することだ。(フォトアート 昭和三十一年五月号 近代写真講座)

 

 カメラ屋では、十万円台、五万円台、三万円台、一万円台と若い人それぞれのギリギリの支払能力に応じて、つまり彼等の生活の貧しさに裏付けられた夢に応じて、カメラは買われて行く。(同前)

 

昭和30年(1955年)頃と現在とでは、写真愛好の位置付けも、物価も、何もかも違っているはずだが、カメラをめぐる悩みは、驚くほど変わらない。
 

なぜこんなに変わらないのだろうか。変わらなすぎて、なぜなのかわからない。
 

わからないのに、働いていてもいなくても、カメラを買ったり買わなかったり、写真を撮ったり撮らなかったりできてしまう。
 

ほとんど「なぜ」がない。そんなになくていいのだろうか、と思っても、ないものは仕方ない、それが写真愛好なのだろう。
 

「なぜ」なきことは美しき哉。

 

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