シ。死、写真は死のメディアである。
写真は死を写し、死を予感させる。写されたものは、いずれ死んでいくだろう。あるいは、すでに死んでいるだろう。そして、写真それ自体も死んでいくだろう。
どれだけカメラが生に向けられようとも、いや、カメラが生に向けられれば向けられるほど、写真は死を招き寄せることになる。
このように、写真は死のメディアである、と繰り返し語られてきた。
しかし、写真の死、写真の終焉を語りはじめると、その言説がにわかに生き生きとしてくるのはなぜだろう。あたかも、写真が自らの死、自らの終焉を語りはじめているかのような語調になるのは、なぜなのだろう。
写真は自らの死を予感しているかのようだ、終焉が刻まれているのだ、それを知ることになるのだ、……なのだ、……だ。
この断言はどこからやってきたのだろうか。
シ。紙、写真は紙に複製される。
ダゲレオタイプからカロタイプへ。ダゲレオタイプが対象を複製する一点物の銀版であるのに対して、ネガ・ポジ法のカロタイプは対象の複製それ自体を複製可能な紙であった。
そうして写真は紙の新たな神話となっていった。
そこに写された画像はなにを物語っているのだろう。あるいは、どのような沈黙を生み出しているのだろうか。
そもそも画像はそこに写されているのか、映されているのか、移されているのか。そのいずれでもあり、そのいずれでもないのか。
それ自体が複製可能だということは、無限に増殖していくということである。それは蕩尽へと至る一形態なのだろうか。だが、その一方で、いつの間にか消えるともなく消えていく画像にも注目すべきだろう。
写真はそれ自体が複製可能だからこそ、蒸発していくのだろうか。
シ。私、写真は私的な表現である。
誰かがシャッターを押し、写真が生まれる。そのとき、その誰かは誰でもよかった任意の誰かではなく、その誰かでなければならなかった固有の誰かとなるだろう。
つまり、写真は私が私を表現するメディアというよりも、固有の〈私〉を生み出していくメディアである。
すると、この固有の〈私〉は、シャッターを押すそのたびごとに生み出されていくのだろうか。写真の数だけ〈私〉がいるということになるのだろうか。もしそうであるなら、その〈私〉は私の手に負えないものになっていくだろう。
写真における〈私〉は、いわゆる自己同一性を保障するどころか、逆に、自己同一性を破壊していくものなのだろうか。
もっとも、自己同一性、統一性、一貫性といったものを想定しないなら、どれほど〈私〉がいようと、別に困ることもないだろう。
そのように、無数の〈私〉とともにあるような写真を思い描くことはできるだろうか。
シ。四月。ところで明日は四月馬鹿。
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