あの80年代、私たちは細部へと向かったのであった。
向かった、という表現は、いささか歯切れが悪いが、話を進めるために、とりあえずは向かったということにしておこう。
シャッターを押すと、なにかが写る、写ったものは主題を語りはじめてしまうという70年代の袋小路を抜けると、そこにあったのは細部だった。
どんな写真でも、細部に目を向ければ、思いもよらぬものが写っている。克明な描写なら意図せぬものまで写り込んでいるだろうし、アレブレボケなら何も写っていないことが写っているだろう。それを語ることは、主題を迂回し続けることになるだろう。
こうして細部はまた、写ったものの意味を迂回し続ける装置になることによって、語れないというそのことを語ることへと開いていった。語ることが行き止まりになる細部から、写真が見る者を突き刺し(お馴染みのあれだ)、密やかに語りかけてくれるのなら、袋小路もまた甘美なものになる(それが甘美でなかったことがあるだろうか)。
さて、このような細部とは、はたして写真なのだろうか。周縁に写り込んだ小さなものたちに驚き続けたり、瞬間が写ったことの逸話を奇跡として語り続けることは、はたして写真なのだろうか。それらは、写真に内在しているのだろうか、写真に貼り付いているのだろうか、写真の表面を滑っているのだろうか。
驚いて息を呑む、ときに沈黙し、ときに語り、時間を紡いでいく。痺れを切らしたかのように饒舌になっていく。こういった身振りもまた写真だというのなら、写真とはまぎれもなく言説的実践だということになるだろう。
細部は写真を肯定する。どのような写真であれ、細部がないような写真はない。細部は身振りを肯定する。些細なことに気づいたかのように写真を覗き込むあの身振り、気づいたことに立ち戻るかのように写真を振り返るあの身振り。そして写真と身振りは言説を肯定する。これだ、違う、違う、これだ、これだ、と繰り返すことによって、細部が写真を満たし、あらゆるイデオロギーから解き放っていく。こうして細部は、新たなる写真の指針となっていく。
ここで変わったものはなんだろうか。いうまでもなく、なにも変わっていない、風景はなにも変わっていないのである。変わっていないどころか、あらゆる風景は、そっくりそのまま写真へと回帰している。そしていつの間にか、主題も公然と言説へと回帰している。
これはいったいどういうことなのだろうか。この道は、いつか来た道なのだろうか。
そうだとするなら、あの80年代、私たちが向かったのは、ほんとうに細部だったのだろうか。
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