考へるピント

48 作家性

2024/09/02
上野修

ある文芸誌の記念号をめくっていたら、気になる写真があった。作者名を探したが、写真の近くには記されていない。小説やエッセイの終わりにあるのかと思ったが、そこにもない。巻末の執筆者のプロフィール一覧にあるのかと思ったが、そこにもなかった。
 

なぜ気になるのだろう、と思いつつ、ほかのページも見てみる。すると、長めのテキストのはじめのページには、二段組の下段に写真が挿入されていることがわかった。
 

ほかのページの写真も、また、気になるものが多かった。その一方で、それらの写真は、それぞれのテキストにマッチしているようでもあった。関係あると断言することはできないまでも、まったく関係ないともいいきれないように思える。
 

ということは、それぞれの写真はそれぞれのテキストに合わせて撮影された、あるいは選ばれたということであろう。そもそも、これらの写真は、同じ作者によるものなのだろうか。
 

それぞれの写真には、共通性があるようにも見える。しかし、そもそも二段組の下段という同じ位置に、同じサイズのモノクロの写真が掲載されているというだけで共通性が生じてしまっているともいえる。
 

フレーミングによって抽象性が高まっている写真もあれば、被写体が中心にある写真もある。何気ないスナップによる写真もあれば、特殊な技法を用いている写真もある。もしこれらの写真をバラバラに見たら、複数の作者によるものだと思うかもしれない。
 

とはいえ、これらの写真は、いくつかのシリーズに分類可能でもあり、ひとりで複数のシリーズを展開する作者も珍しくないことを踏まえれば、同一の作者によるものでも不思議ではない。
 

テキストと写真の組み合わせを決めたのは、誰なのだろうか。テキストの作者が選んだのか、写真の作者が選んだのか、あるいは編集者が選んだのか、ある程度の合議のうえで決めたのか。そうした過程を知ることに意味はあるのだろうか。
 

それぞれの写真が、それぞれのテキストに、まったく関係ないともいいきれないということは、テキストの意味を支配するほど強くはない写真だが、テキストと分離するほど弱い写真でもない、ということである。
 

もし写真に作者名が記されていたらどうだっただろう。その作品性は、より強くテキストへ入り込んでいったのだろうか、あるいは、作品性が強まることで、逆にテキストと明確に分離していったのだろうか。テキストの作者は、このようなことは気にならなかったのだろうか。
 

この号には、イベントの写真が掲載されているページもあり、その写真には、写真:誰それという形式で撮影者名が記されていた。作品性が薄そうな記録的な写真には撮影者名が記されているのも、奇妙といえば奇妙である。撮影者名は、むしろ写真を作品性から切り離すこともできるということか。
 

いささか混乱しつつページをめくっているうちに、写真:誰それという形式とは別の形式で、一連の写真の作者名らしき名前が記されているのを見つけた。その形式は、一連の写真の作家性を強めたり弱めたりするものではなかった。
 

その形式を見つけたときに、じつはこうして混乱するのは二度目であることに気づいた。遅ればせながら、以前にも同じ文芸誌の別の記念号で、写真の作者名を探した結果、ひとりの作者によるものであることがわかったことがあった(しかもそれについて少し書いていた)のを思い出したのである。
 

このようなかりそめの匿名性による混乱が意図的なものであったとすれば、私はすっかりそれにはまったということだろう。意図的なものでなかったとするなら、私がはまった謎とはなんだったのだろう。

 

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