後で見る、という概念は、21世紀における偉大な再発明のひとつだと思う。
後で見る、ということは、今見ない、ということであり、そのまま永遠に見ないかもしれない、ということである。
今見ない、永遠に見ない、ということの婉曲表現が、後で見る、だともいえるが、それだけではないだろう。
永遠に見ない、かもしれないが、いつでも見ることができる、というのがデジタル時代の感覚である。
たとえば、ライブ配信イベントで、アーカイブはありますか、という質問が出ることがある。その場合のアーカイブという言葉は、記録として保存されるとか、資料化されるといった、辞書的な意味ではなく、後で見ることはできますか、という程度の意味だろう。
さらにいうなら、それは、かならず後で見る、ということでもなく、後で見ることができる可能性を留保したい、というくらいのニュアンスだろう。
サブスクリプションというのは、そのあたりの曖昧な気持ちを、定額料金ですっきりさせることができる、便利なシステムだと考えることもできる。
写真という、後で見ることを可能にする夢の機械も、デジタル時代になって大きく変わってきた。
かつて写真を撮るということは、まさに、後で見ることそのものだった。いうまでもなく、写真を撮ることとはその光景を後で見るためだが、撮った写真は後にならないと見ることができないという側面もあった。写真は現実を写すが、写された現実は現像してみないとわからないからである。今見ている光景を再び見ることを先延ばしするという二重性とズレが、写真の特徴であった。
デジタル時代になると、この二重性とズレは解消される。デジタル時代における写真を撮ることとは、今見ている光景をディスプレイに映すことであり、ディスプレイに映っている光景を保存しておくことである。それはレンズをとおした光景を保存するためにシャッターを押すことかもしれないし、送られてきた画像を長押して保存することかもしれないし、表示されている画面をスクリーンショットすることかもしれない。つまり、ここでは現実なるものの意味が変わっている。いわば、現実がディスプレイに溶けているのだ。
こうして、デジタル時代においては、今見ることと後で見ることが密着する。ということは、今と後との区別が限りなく消えていくということでもある。不思議なことに、今見ること、今見ないこと、後で見ること、後で見ないこと、いつでも見ることができること、永遠に見ないことが、同じことになっていくのである。後で見る、という概念には、これらのすべてが含まれつつある、ともいえるだろう。
などともっともらしいことを綴ってみたけれど、こうしたことを細々と考えることにどれだけの意味があるのだろうか、と感じてしまうことこそがデジタル時代の特徴かもしれない。
アーカイブがあろうとなかろうと、時間は流れていく。今見ることと後で見ることも流れていく。今見ていたものを忘れ、気まぐれに後で見ている今がある。ここでの写真は、むしろ気散じのおしゃべりのようなものかもしれない。これについては、また別の機会に考えてみよう。
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