前回の続きということで、今回はまず、『アサヒカメラ』の1975年4月号増刊「現代の写真 '75 近代写真の終焉」の目次の残りを引用しましょう。
対談・近代写真50年の証言 生きた・見た・撮った 出席者・伊奈信男・渡辺義雄 (司会)岡見璋
座談会・60~70年代=同時代の映像・写真を読む行為へすすむ 出席者・北井一夫・篠山紀信・鈴木志郎康・多木浩二私を衝撃した半世紀の写真集 桑原甲子雄座談会・胸おどらせた月例 コンテストからプロの道へ 出席者・秋山青磁・植田正治・中村立行座談会・カメラとフィルム50年の興亡 ドイツに追い越せ、追い越した 出席者・白松正・米谷美久・松井一男・藤田直道競い合う“富士”と“さくら” 国産ロールフィルムの50年 河田威男●私とコンテスト
幻のヌード写真 田村栄
「日本のすがた」受賞でプロへ 浜口タカシ
チャーシューがフィルム代 北井三郎
あっけなく手に入れた年度賞 木村仲久
第一回のギャラリーに入選 蒲生右之助
上野の写真館の門生のころ 土門拳
第一回の月例で一等 塩谷定好
望遠レンズを手持ちで切る 八木原茂樹
焼け溶けた銀カップの山 真継不二夫●私とアサヒカメラ
与えられたチャンス 長野重一
夜景・舞台写真・現代の感情 大東元
頭かかえた瀬戸内の春の雪 岩宮武
ライバルとともに四半世紀 秋山庄太郎
フィルムを土鍋で煮つめたころ 杵島隆
写っていたイタチ 田中光常
表紙のおじょうさんは今…… 稲村隆正
物語は見ることから始まった 奈良原一高
13年目の「小さい生命」 佐々木崑
「アサヒカメラ」創刊と同じ年 中村正也
“ツムQ”天皇と表紙 三木淳
表紙の原稿料で親孝行 林忠彦
お付き合い四十年 濱谷浩
四年間の旅の記憶 森山大道
自家処理したカラー写真 大竹省二
「農村電子工業」のころ 英伸三
編集室から
「対談・近代写真50年の証言」「座談会・60~70年代」は、前回紹介した、時代順に構成された日本の近現代写真史のパートに織り込まれています。
「座談会・胸おどらせた月例」「座談会・カメラとフィルム50年の興亡」で、ようやくカメラ雑誌らしい記事になってきますが、こちらは全体が300ページ弱のなかの、260ページ以降の部分ですから、巻末にほんの少しだけ掲載されている印象です。とはいえ、この部分の記事も、かなり読み応えがあります。
たとえば、「座談会・胸おどらせた月例」の、次のような当時の物価がうかがわれる話は、とても興味深いのではないでしょうか。
秋山 そう。「アサヒカメラ」の賞金は高かったよ。十円だから。たいへんだよ。ぼくがもらったのは密着の手札型で五円ですよ。そのときは神ダナへ五円あげた。初めてもらったんだから、その五円で家中に全部カツライスをご馳走した。銀座のカフェーからとったが、なんとそのカツライスが二十五銭なんだから、十人とったって二円五十銭ですよ。それだけの値打ちがあったのだから。いまの賞金なんて安いもんですよ。そのころの五円はたいへんなもんです。ともかくパーレットそのものは二十五円程度で買えたのだからね。
秋山 カメラも高かったな。ぼくもふたことめに、ライカを持っている人は家をしょって歩いているといったもんだ。植田 ライカは映画のフィルムが使えるというので魅力だったな。ベストフィルムが出たころですが、ライカは特殊のカメラだったよ。秋山 五百円ぐらい。そのころ五百円だと、六畳に三畳の家が買えたわけだ。だから撮影会に行くと、あれは家をしょって歩いているというわけだ。
「座談会・カメラとフィルム50年の興亡」にも、物価をめぐる同じような話が出てきます。このように話が重なっていくのも面白いですね。
松井 一九一五(大正4)年に単玉レンズのベストコダック、いわゆるベス単ですね。それからピコレットがやってきて、一九二五年にパーレットが作られた。値段は単玉でいちばん安いので十七円でしたね。高級パーレットは四十何円なんてのまであったようです。藤田 そういえば、「アサヒカメラ」の創刊から何号もたたない間に、ライカA型の広告が出てます。値段はわからないけど、当時のライカは、たいへんな値段だったでしょう。米谷 いまのロールスロイス以上。松井 僕ら子どものとき聞かされたのは、ライカを持っている人は家をかついで歩いてるようなもんだと……。藤田 戦前はカメラっていうのは貴金属に類するものだった。
発行当時、つまり1970代末の認識がわかるのも、こうした増刊号を今日読み返す楽しみだと思います。参加した4者が登場する、座談会のエンディングをみてみましょう。
米谷 日本のカメラは、七〇年代から電子産業との組み合わせで発展してきた。電子産業がカメラと一体に動いてくれたことが、日本のカメラを不動の地位に持ち上げたという気がするんです。将来、より電子技術とカメラが密着していって、今後の大きな主流になるんじゃないですか。
白松 一眼レフはミノルタXDもそのひとつと思いますが、もっとおもしろいカメラに進んでいくでしょうし、もっと使いやすい、知識がなくても使えるカメラ、そういうのが、これからの方向じゃないですか。それに技術がどう生かされるかということになってきた。
松井 それからポラロイドですね。これが日本にどういう形で定着していくか。
藤田 現状でまだまだというのは、フィルムが国産化されてないことですね。
これらの座談会の部分に、「私とコンテスト」と「私とアサヒカメラ」のコラムがカコミで入るという構成になっています。文章を寄せている顔ぶれをみるだけで、興味がそそられます。いくつか抜粋してみましょう。
「アサヒカメラ」のコンテストにはじめて応募したのは一九三五(昭和10)年8月号で、「放課後」という作品が第一部の佳作に入った。同じ年の10月号には「アーアー」という作品が第一部の二等に入選し、賞金をもらったのを覚えている。この二回だけである。そして十月の末には名取洋之助の日本工房に入社している。
「写真技師志望者を募る」という日本工房の広告をぐうぜん発見したのも、「アサヒカメラ」の誌上であった。コンテストに応募はしたが、ぼくは最初からプロだったのである。
(上野の写真館の門生のころ 土門拳)
ある時、津村さんから「三木君、東宝にとても良い新人女優がいるから、表紙用にとってきたまえ」と電話をいただいた。「アサヒカメラ」の表紙を撮らせていただけるとはありがたや、ありがたやと感激して砧の東宝のスタジオにすっとんで行って、その女優さんを、興奮して写してきた。
当時私は、名取洋之助さんの主宰する「サンニュース」にいた。名取式分業システムで、撮影する人は撮影、暗室作業は暗室作業というふうに分かれていたので暗室の人に現像を依頼した。出来上がったネガは、ひどいアンダーで伸ばせない。
とたんに怒りの形相のツムQ天皇の顔が浮かんできて、私は、マッサオになってしまった。
あわてふためく私を見かねて、木村伊兵衛先生が「いいよ。僕が家に帰って伸ばしてあげるよ」といってくれた。次の日、木村先生が「ほいよ」と渡してくださった印画を見てたまげた。ちゃんと、でているではないか。(“ツムQ”天皇と表紙 三木淳)
「アサヒカメラ」と私の付き合いも四十年以上になる。先般、あるパーティーでいっぱい機嫌の時、岡井輝雄編集長に詰めよられ、今年1月号にヌードを撮る仕儀になってしまった。さんざん考えたあげく、オーガスト・ロダンの「考える人」のポーズを試みた。
(お付き合い四十年 濱谷浩)
そして、それら無数の旅は、じつに楽しくも、また辛い写真への旅でもあった。つまり、それは、あくことのない自分へのこだわりの旅ででもあったわけだ。たかだかチョンとシャッターを押すだけの写真を撮ることが、なにゆえに、こんなにも苦しいものなのか?
「ああ、もうヤメタヤメタ!」と、何度歯ぎしりをした日々の多かったことか。しかし反対に、こんなチッポケなカメラという箱に自分を託することが、どうしてこれほどステキなことなのか?
「オレはひょっとして天才かも?」と一人浮かれてうまい酒をのんだ夜々もあった。
(四年間の旅の記憶 森山大道)
最後のページの「編集室から」では、次のような後記が綴られていますが、本書はまさにそれを体現した一冊に仕上がっているように思います。
人に歴史があるように、雑誌にも歴史が刻みこまれています。その歴史は、時代を超えて引きつがれていく文化そのもので、各時代に、生き、愛し、主張し、そして流転していった先達たちの人間臭い息吹がひそんでいるのです。
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