日本の写真史でいうと、1960年代末は、プロヴォークとコンポラ写真という動向が注目された時代です。1970年に発行された『アサヒカメラ教室』第3巻「スナップ写真」には、そうした同時代の動向も色濃く反映されています。
たとえば、プロヴォークの同人でもあった森山大道による「主観的スナップ」というタイトルの章は、写真を撮ることに対する問いからはじまっています。少々長くなりますが、冒頭部を引用してみましょう。
写真を撮るということは、一体どういうことなのだろうか? ほぼ一〇年にわたって写真を撮りつづけ、現在も、そしてまたこれからもきっと撮りつづけていく写真、写真を撮ることを職業としていながらも、僕は日常この根源的な問いかけがまるで打寄せる波のようにくり返し自身の内部に巻起ってくるのである。それはちょうど「生きるとは?」という人類永遠の命題に似た重さで僕にのしかかってくる。ある人は、「それは芸術である」というかも知れないし、またある人は、「記録以外の何ものでもない」というのかも知れない。そして僕は、そのどちらをもひとまず理解したうえで、なお納得できない多くの部分があるわけだ。芸術といったところで、従来から信奉されてきた絵画、彫刻などのように、地上に、これただ一つしかないといった風な一品性を持っているわけではなく、むしろきわめて発達した等価値的な光学機械で、いまやだれにでも写せるわけである。そして、何よりも写真は大量複製がその本来的機能とされているからである。また、記録性にしたところで、写真機と写真術が発明されたその時点から、つまり先天的に事物を複写してしまうといった機能を持合わせており、それが歴史のなかのある微細な一断片として、必然的に記録性を持ちうることは当然のことであるわけだ。とすれば、いわゆる芸術性にとぼしく、また記録性がいうまでもないといった写真とは? そして僕が日常間断なく撮り、見つけようとしているものは一体なになのか? きわめて個人的かつ非論理的な僕なりの見解を、以下に書き続けてみよう。
このように非常に本質的な問いが前半で展開され、後半には1969年に連載した「アクシデント」シリーズをめぐる作例解説が続いています。抽象論で終わらずに、写真をめぐる具体的な解説があるのも、本書のような指南書の面白いところです。
森山大道のページに続くのは、ずばり「コンポラ写真」というタイトルの章の大辻清司による考察です。こちらも同じく、冒頭は本質的な問いからはじまっています。やはり長くなりますが、引用してみましょう。
写真は、撮り方や使われ方によって、いろいろに分類される。これこれの特徴が共通だから、同じ傾向の写真をひとまとめにして、これをスナップ写真と呼ぼう、あるいはポートレートと呼ぼう、といった具合である。しかしこれは写真が出来上がったときの区分で、決して撮影のときからこの区分がつきまとっているわけではない。また、そうであってはならないと思う。
私達が写真を写す場合、そんな区分の中にピッタリ当てはめて撮らねばならない、といった理由などはなにもない。何よりも大事なのは、自分が撮りたいものを、自分がふさわしいと判断した方法で撮るべきだと思う。こうして出来た写真が、かりにどんな区分にも当てはまらないとしても、気にかけることなどひとつもない。いままでの分類からはみ出した、ユニークな作品が生れたことを誇るべきだろう。
分類は、なにかの便宜のために後か区分けして、それに呼び名をつけたにすぎない。たとえば、自分の撮った写真をつくづく見ながら、ああ、これを分類するならばスナップ写真なんだろうな、と思ったとき、他の人がその写真はポートレートだね、と横あいから口を出したとしても別に目くじらたてて自説に固執することもない。分類というのは大変に流動的で、立場立場によって一枚の写真がさまざまな区分に納まり得るからである。それに加えて区分の呼び名よりもっと大事なのは、実体としての写真そのものの値打ちであり、その値打ちは、区分の呼び名がどう変ろうとも、それで左右されるものではないはずである。要するに、自分がこれはと思った事物を、ふさわしいと思った方法で撮るのが写真家であって、後から加えられた区分やその名称は、写真の価値にとって直接的な関係は何もない、ということである。
こうした思考があるかと思えば、「私のスナップ写真」というコーナーでは、小川隆之が、次のようにいっています。
『スナップ写真』ということばを、久しぶりに聞くような気がする。『スナップ写真』ということばがいまだにあるのだろうか、とさえ思う。結論から先に、しかも、少々乱暴な言い方をさせてもらえば、私にとっては、『写真』即『スナップ写真』と思えるからである
スナップ云々以前に写真を撮るということはどういう行為かと問いかけがあり、そもそもスナップ写真という分類にはさほど意味がないという思考があり、すべての写真はスナップ写真だという断言がある。それぞれのアプローチは違っていても、皆、真摯な問いを孕んだ行為として写真の実践を考えているところに、時代の風を感じます。
もちろん実践という点では、もっと直接的にスナップのノウハウを説いている章もあります。富山治夫は「都会スナップ」で次のように述べています。
都会の大きな魅力は、人が集り、人が動くところにあると思う。そして都会の繁栄と混乱は、いろいろなドラマを生んでくれる。カメラマンにとって被写体を豊富に提供してくれる点でも都会は大きな魅力がある。
私は、初めての場所に行く時には、かならず地図を持参する。都会の広壮な大通りから、むさくるしいまがりくねった小路に至るまで、幾千、幾万とある通りをできるだけ覚えるためだ。土地勘のない私にとって地図をもたずに取材に行くことは、暗やみの中で照明機具も三脚もなしで撮影するのと同じくらいに不安だからである。
「地図は必ず持とう」という呼びかけには、思わず何度も頷いてしまう説得力があります。スマートフォン全盛の現在、すっかり紙の地図を見なくなってしましましたが、街でスナップをするなら、やはり紙の地図の限りますね。
『アサヒカメラ教室』は基本的にアマチュア向けの指南書だったと思いますが、当時の読者は、これだけの幅がある思考と指針を、どのように受け止めていたのかも気になるところです。
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