top コラム書棚の片隅から33 奈良原一高・松岡正剛『写真の時間』 その3

書棚の片隅から

33 奈良原一高・松岡正剛『写真の時間』 その3

2024/09/23
上野修

今回は、奈良原一高と松岡正剛の対談『写真の時間』から、興味深い部分をピックアップしていきたいと思います。
 

前回、ダイアン・アーバスのカメラついて触れた部分を紹介しましたが、もうひとつ、プリントをめぐるエピソードがありますので、まず、そこを紹介しましょう。

 

奈良原——現代作家の場合うまいへたというのは一概に決めるわけにいかないんですよ。そりゃあアンセル・アダムスなんかの写真(プリント)見りゃ文句なしにうまいですよ。ファイン・フォトグラフィーという感じである。しかし、本来焼きというものは伝達への具体的な手がかりですから、その作家の作品の内容的要求にも基いて、マッチした条件がいいわけですよね。ですからダイアン・アーバスのプリントはダイアン自身が焼いたものがまず決定的ですね。ダイアンのネガからいくらアンセルがアンセル流にビューティフルに焼いたってどうしようもない。ダイアンの写真にはダイアンのプリントの調子というものが生まれながらにありますからね。アンセルのプリントは清明な大気感のある、どらかというと冷黒調の印画でしょう。ダイアンはポルトリーガというアグファの温黒調の印画紙を好んで使い、人間の世界の体温や、淀みを感じさせる印画だ。ぼくの友だちの若いイギリス人、ニール・セルカークって男がダイアンに心酔していて、ダイアン・アーバスが死んだあとはダイアンのプリントの調子にそって展覧会に出品するいろいろな写真を焼きましたけど、その時になかなかわからなかったのがダイアンのプリントの縁をボヤッとした形に残すという方法でした。

 

 

たしかに、アーバスのプリントのなかには黒縁の出方が独特のものがあり、その黒縁があるものとないものでは、作品の見え方がかなり変わってきます。ここでの発言は「それがすごく問題で、彼女が使っていた暗室を捜して、伸ばし機なんかさんざん調べたんですけど……」と続き、方法が明かされています。知りたい方は、本書を入手して、ぜひ続きを読んでみてください。
 

写真家のエピソードとしては、土門拳も登場しています。

 

奈良原——昔、土門さんがぼくのポートレイトを撮るというので上野の松坂屋の前で夕方撮ってもらったことがある。ショーウインドウの前にちょっと立て膝してカメラを手にしたりしているところを撮ってもらったことがあるんですよ。その時にショーウインドウの照明から落ちてくる光が、だんだん夕闇が迫ってきて、デイライトよりそっちのほうの光が強くなってくる。ぼくは被写体だからべつに眼で見ているわけではないけれど、自分の顔に当たったり、手に当たったりする、そういう光の皮膚感覚でだいたいこのくらい顔を向けていると、なんとなくこう写るんじゃないかとおもいながらしゃがんでいたことがあった。あとで土門さんが撮った写真を送ってくれたんですけれど、だいたいその時ぼくが予想していたような感じに撮れていた。

 

 

サラッと書かれていますが、これもけっこうすごいエピソードではないでしょうか。二十歳ほど離れた写真観も違う写真家が、夕方の百貨店の前で撮る撮られる関係を浮かび上がらせている。撮られる側は撮る側のアプローチを読み切っていた、と考えるとなかなかスリリングです。上野の松坂屋が、写真の隠れた聖地に思えてきそうです。
 

ところで本書の巻末には「写真の時間への一〇〇選」という、100冊のブックリストが掲載されています。こちらも興味深いのですが、あまりに長くなるので紹介は控えて、その後に掲載されている、「奈良原一高作品集」の方を紹介してみたいと思います。

 

 

『ヨーロッパ・静止した時間』(鹿島研究所出版会)
『八木一夫作品集』(求龍堂)
『スペイン・偉大なる午後』(求龍堂)
『ジャパネスク』(毎日新聞社)
『Europe——筑摩フォトギャラリー』(筑摩書房)
『王国』(中央公論社)
『生きる歓び』(『カメラ毎日別冊』毎日新聞社)
『消滅した時間』(朝日新聞社)
『王国——沈黙の園・壁の中』(朝日ソノラマ)
『近くて遙かな旅』(集英社)
『光と波と』(パルコ出版)
『光の回廊サンマルコ』(ウナック・トウキョウから刊行予定)

 

奈良原は1931年生まれ、『写真の時間』の出版は1981年なので、このリストは50歳になる頃のものだということになります。
 

たとえば、伝説的なデビュー展『人間の土地』(1956年)がようやく写真集のかたちになるのは2017年ですので、このときのリストには当然ながらまだ入っていません。写真が美術館で扱われることも滅多にないような時代でしたので、活動の全貌がつかみにくい時期だったともいえるでしょう。そのあたりも、かつて本書に触れたときに、私がピンと来なかった理由なのかもしれない、と思いました。
 

さて、本書の最後では、次のような発言があります。

 

奈良原——ぼくが気持悪いというか不気味なのは、写真が発明されてからずっとこのかた、もう鏡のように、「記憶する鏡」とホームズが言ったみたいに、写真は映されているわけでしょう。それは現実の世界とはちがった世界だというのがぼくの考えなんだけれども、それでも現実とは眼に見えない糸で結ばれているわけでしょう。それが現実の進行と同時に平行して、ワーッと発生してまるで現実を映す壁みたいなものを形成している。われわれが写真の壁に沿って歩いているみたいな状況ですよね。われわれが住んでいるこちら側の世界は、どんどん光速で消滅しているのに、写真の壁の側だけはガーッと残ってね

 

 

このあと、「こちらにいるわれわれが勝利者みたいな顔をしながら破滅へ向かっていて、非常に不気味です」と発言は続いていきます。このあたりは、現在の写真の在り方として読んでも、さほど違和感がないように思います。もしかしたら、この認識の先進性こそが、1980年代の私がピンと来なかった、本当の理由かもしれません。
 

この発言は、もう少し続いて本書が締め括られています。こちらも気になる方は、ぜひ続きを読んでみてください。
 

あとがきで、奈良原はこういっています。

 

 写真は世の中にいっぱい散らばっているくせに、あるいは散らばりすぎているためか、写真そのもののおもしろさに眼をとめて語られることが少ない。写真と言葉はあまりにも次元を異にするから、語るのは難しいことかもしれないが。しかし、映画を見たあとに、お茶を飲みながら、今見た映画のおもしろさ、昔見た映画の感動を語り合うように、写真が一般の人々の心を通して生き生きと語られ、社会化されることを期待したい。

 

 

現在の写真は、ここでの期待のようになっているでしょうか、いないでしょうか。考えさせられるところですね。

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