昔は、現在のように写真をめぐる本が多くありませんでした。前回紹介した「読書案内」(1982年)には、中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』、スーザン・ソンタグ『写真論』、ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』などが並んでいましたが、そうした定番も限られていたように思います。
そんな時代に、工作舎のプラネタリー・ブックスのシリーズから出ていた、奈良原一高と松岡正剛の対談による『写真の時間』(1981年)は、とても気になる一冊でした。
気になる一冊だったのですが、1980年代に何度か読んだときにはピンと来なかった記憶があります。あらためて今読んでみたらどうなのだろう、ということで、今回紹介してみる次第です。
まず、変形の帯には「フレームを超える21世紀リアリズム」「写真は宇宙のスーパー・アートだ」「新しい写真の語り方の誕生」、その背表紙側には「写真の秘密を語る」と、魅惑に満ちた惹句が綴られています。
本を開くと、次のようなアフォリズム的フレーズが見開きにカッコよく置かれています。
★——写真家は言葉に対するコンプレックスを強力な武器にしているようなところがある。
★——基本的な意味での写真というのは宇宙的光沢に裏付けられている。
★——写真はJ・G・バラードが「外なる現実と内なる精神が出会い融合するところ」と語った内宇宙そのもののようにおもえるんですよ。
★——写真の時間というのは一瞬だけども、前後の過去と未来の時間を圧縮したみたいに、
過去と未来を心理的に取り込んでいる。
そして目次が続きます。こちらもとても印象的なフレーズが並んでいます。
第1談 写真的覚醒の瞬間
写真には撮った人間を透明人間にしていくような浄化作用が潜む
「カメラ」の同化しなさが逆に「写真」のスタートになる
一眼レフには眼球とレンズがいっしょになるデカルト的快感がある
ブリキ細工的アサペンには奈良原一高的彫刻がされている
右眼で撮りつづけたデジタル的写真像
第2談 宇宙的光沢の凝結
写真には他のアートに比べて圧倒的な鉱物的な光沢というものがある
写真は忘却のアートだと言ってよい
本来、写真は「オール・オーバネス」をスタートからもっている
再生された時間の結晶をめざして
写真における写真家の存在は地球照みたいな気がする
第3談 気韻生動と三世実有に潜む光景
写真の曖昧さに宿る宇宙的消息
「奈良原一高様」にささぐ様式
写真は億い出の地球そのものなんだ
写真は宇宙のスーパー・アートだ
写真と水墨画に潜む「気韻生動」の光景
「三世実有」の露光時間
第4談 光学的未来からの恩寵
極端に言えば、天球と眼球はアイディンティファイされている
「現在」という感覚は光速の発見から始まる
マン・レイは自由なソフト・アイ的選択の中にいた
アジェの視覚に生きる眼の不思議さを見る
第5談 全写像なるものへ
文字と絵がいっしょであった時代からの発想
これからのヴィジュアリティにはエディトリアルが必要だ
ものすごくメタフィジィックな写真というものを見たい
写真が不気味なのは現実とはちがった世界を記憶する鏡だからだ
写真の時間への一〇〇選
エピローグ・遊談者紹介
なぜこんなに興味深いフレーズが並んでいる本に引き込まれなかったのか、不思議です。
対談は「奈良原——写真家がしゃべるというのは何か変なもんですよね。(笑)」という発言からはじまります。ちょっと意味がわかりにくいかもしれませんが、今と違って当時は、写真と言葉は真逆のものとして扱われていたのです。
そんな時代性は、次のようなやりとりからも伺われるのではないでしょうか。
松岡——活字にはならないけど、しゃべる人は多いですよね。
奈良原——それか、グッとしゃべらないかね。だけどもともと言葉の分野というのは、ぼくが写真を撮っている時の状態とはぜんぜんちがう世界みたいなものでしょう。写真を撮っている時というのはわりあいトランス状態なんです。覚醒の瞬間というかね。だから話している時のぼくは写真撮っている時のぼくとはもうぜんぜんちがうような感じがする。別の次元に生きているというか別の人間みたいな気がする。
(中略)
松岡——しゃべることと写真を撮ることは両極ですかねえ。
奈良原——ぜんぜんちがう世界みたいな気がする。だから語るとか書くとか、そういった言語思考みたいな世界というのとはぜんぜんちがって、あらためてそちらのほうへ首をむけないとダメみたいな感じがする。忘れていたもうひとりのぼくへね。
言葉についての感覚をさらに掘り下げて、奈良原一高はさらにこう語っています。
奈良原——あの人(森永純)はものすごくまじめだから。だけど、写真撮ってない時のぼくはある意味では眠っているみたいな感じがするんだけどね。言葉で考えるっていうのはなにかちがう穴の中に入っていくみたいな感じがする。切りつめて四捨五入している。だからあんまり言葉って信じてないですよ。思いようでどうにでも言える気がする。写真というのは「そこに立つ」ということにすくなくとも犯し難いものがあって、なにかに向かっているという感じはあるんだけど、ぼくの場合、言葉というのは、ふり返らないとい出せない。これは写真が言葉にならない感情の正確さをぼくたちに植えつけてしまったためかもしれない、音楽みたいにね。叫びみたいな言葉とかつぶやくような肉声はよくわかるんだけど。もんた&ブラザーズも「ダンシング・オールナイト」で歌っていますね、「言葉にすれば嘘に染まる」ってね。(笑)写真もまた別の嘘なんだけど、これはもうわかりきった嘘だから。
「ダンシング・オールナイト」のこの歌詞は、私も常々、写真のようだなと思っていたはずなのですが、なぜピンと来なかったのでしょう。
いや、じつは、本書からこの歌詞に感銘を受けたのを忘れて、ピンと来なかったなどと、記憶を塗り替えていたような気もしてきました。
さて、目次を見てみると、とりわけ「ブリキ細工的アサペンには奈良原一高的彫刻がされている」あたりになにが書いてあるのか、興味津々になってきます。そのあたりを次回、紹介することにしましょう。
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