ひさしぶりにCDを整理していたら、なぜか椎名林檎の『無罪モラトリアム』(1999年)を持っていたのにビックリ、ケースを開けて二度ビックリしました。
椎名林檎がモードラ付きのニコンF3を構えているのです。
ブックレットにもポラロイドがデザインされているなど、写真愛好者を惹きつける仕上がりになっています。
カメラや写真に関係ある歌がこのアルバムに入っているのかなと思いましたが、そうではなさそうです。けれども、次のアルバム『勝訴ストリップ』(2000年)には、写真を撮りたがる〈あなた〉が出てくる「ギブス」という歌が入っていますね。
この歌について論じた部分がある本を、ちょうど最近読んだところでした。
写真を撮ることは「儀式」であると述べたスーザン・ソンタグは、どういう活動が写っているかは問題ではなく、写真が撮られて大事にされていればいいのであって、写真撮影は「存在の証拠」や「経験の証明」ではあるが「経験を拒否する道」でもあると述べている。その一瞬が切り取られて過去のものになるということは、とりもなおさず写真が経験それ自体ではなく、その証明にしかならないことを意味する。写真は直截的な関係性に介入し、接触を禁ずる媒介物なのだ。
北村匡平『椎名林檎論 乱調の音楽』
ここから論は、椎名林檎の「身体性」へと展開されていきます。
ところで、こちらもたまたまなのですが、同じく最近読んだ、正木香子『タイポグラフィ・ブギー・バック』でも、椎名林檎が登場しています(ネットでも読むことができます 第15回 女王の綴りかた)
『無罪モラトリアム』の「丸の内サディスティック」、『三文ゴシップ』(2009年)の「丸ノ内サディスティック(EXPO Ver.)、『ニュートンの林檎〜初めてのベスト盤〜』(2019年)の「丸の内サディスティック」、それぞれの歌詞カードのフォントには、「活字や写植と入れ替わるようにして、デジタルフォントの拡充が急激に進み始める」変化が浮かび上がっているというのです。
現在では、CDなどの物理媒体をフィジカルと呼ぶことがあります。いうまでもなくフィジカルには身体という意味もあります。今日、あらためて『無罪モラトリアム』を見てみると、デジタルへと移行しつつある時代に乱反射するように、音楽、銀塩、活字といったフィジカルなものが蠢いているようにも感じられてきます。モードラ付きのニコンF3が、それを象徴しているかのようですね。
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