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なぎら健壱の「遠ざかる町」

第41回 写真の中にいる②

2025/08/20
なぎら健壱

北千住の宿場町通りにあった洋品屋さんのマネキン。昔はこうしたマネキンを置いている洋品屋さんをかなり見かけたが、いつの間にか眼にしなくなってしまった。いつ頃からほとんどマネキンを見なくなってしまったのか? 全く意識の外で分からない。

Nikon D200・36mm(35mm判換算54mm)で撮影・絞りF8.0・1/25秒・ISO100・RAW[撮影日 2008年9月2日]

 

 

夢を見た。場所はどこなんだろうか、多分浅草橋か蔵前あたりだと思う。大通りに面した場所で、それに沿って歩いて行くと、廃車になった古いバイクや、昔の石のゴミ箱などが眼に入る。へぇ~こうしたモノが残っているんだ、と感心しきりである。視線の先には古いモルタルの店舗などがある。おっとこのあたりは戦災に遭わなかったのか、かなり古い建物が残っている。写真に収めなければと思うのだが、あいにくカメラを持ってきていない。こりゃ~また来なければいけないな、場所はちゃんと分かっているよなと所在地を頭に入れておく。おや、目の前の建物は相当古いぞ。木造2階建てで、長屋形式の横に長い昭和を彷彿とさせてくれる建物である。もしかしたら戦前の建物かもしれない。さらにカメラを持っていないことが悔やまれてならない。とりあえず場所を再度確認しておこうと、駅の方に向かう。交差点に出るのだが、ここでどっちから来たんだと、方向を失ってしまう。

 

そんな夢である。これは以前月刊誌『日本カメラ』に連載していたフォトエッセイ〈町の残像〉にも同じようなことを書いた。つまり夢の中で、琴線に触れる建物や景観を眼にするのである。その時なぜかカメラを持っておらず、必ず「しまった、後日撮影に来よう」と思うのである。これは常になくなりつつあるモノ、なくなってしまったと思われていたモノを探し求めているからに他ならないのだろう。連載に使う写真がない、そうした被写体探さなければならない、写真を撮らなければならない、というような強迫観念にとらわれているのだろうか。はたまた日々失われているモノが多過ぎるからなのか、とにかくそんな夢を見る――何回も同じような夢を見るのである。

 

カメラを構えた時、「よしやった!」という気持ちで撮ったのか「まあ、抑えておこう」程度で撮ったのかは覚えていないが、記録として残しておいてよかったとは思う。そうした被写体が写真の中にある。前回に続き、今回もランダムに今は消えてしまったと思われるモノを紹介しよう。

 

 

Nikon D3・70mmで撮影・絞りF2.8・1/90秒・ISO200・RAW[撮影日 2009年10月20日]

 

①は前回登場した『忍び返し』である。防犯のため塀の上に設置されるモノだが、前回「写真のような仰々しい忍び返しは、だんだん見なくなってしまっている」と書いたが、なんのなんの、こちらもなかなかに仰々しい。忍者が紐の先に着けて、投げてそれがどこかに噛み、侵入する時に使う金具に似ている。それを塀の上に並べたみたいな体である。墨田区で見かけた。しかしあたしはなんでこんなモノを撮っているんだろう?

 

Nikon D3・48mmで撮影・絞りF5.6・1/1600秒・ISO200・RAW[撮影日 2008年11月28日]

 

②だが、これは浅草の『花やしき』にあった『Beeタワー』である。「おいおい、あったはないだろう。『花やしき』にある『Beeタワー』だろう」そうおっしゃりたいですか? 実は『Beeタワー』、は2016年(平成28年)に廃止されているんですよ。つまりもうないのよ。実はあたしもいまだにあると思ってしまう。目をつぶってもこの『Beeタワー』が浮かんでくる。『Beeタワー』は1960年(昭和35年)に創業25周年記念とし、日本一の高さ50mの『人工衛星搭』という名前で設置された。その後に『Beeタワー』に改名され、『花やしき』のランドマーク的存在であったのだが、それが消えてしまった。

 

話は前後してしまうが、『花やしき』は1858年(喜永6年)に造園師である森田六三郎により造られた。当初は名前のとおり花を愛でる場所であったが、後に動物園のような施設になり、やがて遊園地化した。

 

 

Nikon D3・24mmで撮影・絞りF5.6・1/3200秒・ISO200・RAW[撮影日 2008年11月28日]

 

そして③だが、こちらは1996年(平成6年)に登場した『スペースショット』である。こちらも『Beeタワー』同様、遠くからもよく見えた。しかし老朽化の為、2022年(令和2年)2月2日に営業を終了した。

 

 

Nikon D80・20mm(35mm判換算30mm)で撮影・絞りF5.6・1/50秒・+2/3EV補正・ISO100・RAW[撮影日2006年9月19日]

 

⑤ Nikon D80・17mm(35mm判換算25mm)で撮影・絞りF5.6・1/60秒+2/3EV補正・ISO100・RAW[撮影日 2006年9月19日]

 

お次の④⑤は江東区洲崎にあった元遊郭の建物である。写真を撮った2006年(平成18年)頃まではこうした建物が数件残っていたが、今は一つも残っていない。今更ながら、各地の遊郭跡の写真を撮っておけばよかったと悔やまれてならないのだが、もう遅い(いくらかは撮っておりますがね)。

 

洲崎は元々深川の埋め立て地であり、ここに1888年(明治21年)に、根津から遊郭が移転してきた。それまであった根津遊廓の側に東京帝国大学(東京大学)の校舎が新築されるため、風紀上の問題で洲崎に移って来た。戦後は「洲崎パラダイス」の名で遊客に親しまれ、北国と呼ばれた吉原とならぶ歓楽街であった。

 

 


Nikon D3・24mmで撮影・絞りF5.6・1/90秒・ISO200・RAW[撮影日 2009年10月20日]

 

⑥はどこだったけか? 確か墨田区だったと思うが、詳しい場所は記憶が定かではない。もう閉めてしまった商店と思われるが、上の看板が黒くペンキで消されている。何のために消した? お店を辞めてしまったからもう看板は必要ないと、塗りつぶしたのか? コカ・コーラの看板とその下は数字が描かれている。しかしそれにしてもなんて乱暴な消し方であろうか。昨今見かけるスプレーでの落書きのようだが、こんなところまで上ることはないだろうし、第一落書きであれば、もう少しましな絵や字であろうはずである。

 

で、拡大してこの看板に描かれたいた、ペンキで消されてしまったのはなんだったんだろうと、解析してみた(⑦)。結果、分かった!

 


Nikon D3・46mmで撮影・絞りF5.6・1/60秒・ISO200・RAW[撮影日 2009年10月20日]

 

左上は「◯マルフク」下は不明。右の赤はコカ・コーラではなく、下地が赤いだけで、やはり「◯マルフク」と描かれている。下には、「生活キャツシング 振込ローン」とあり、その下は電話番号である。

 

そうか、金融業者の『マルフク』の看板か、かつていたるところで見かけましたよ(現在は廃業)。つまりこれは金融業の委託看板ってことですな。ということは、商店ではないのかもしれない。

 

しかしこのお宅、ガラスにバッテンのテープのようなモノが貼られている(⑧)。

 

Nikon D3・24mmで撮影・絞りF5.6・1/90秒・ISO200・RAW[撮影日 2009年10月20日]

 

戦時中、爆風で窓ガラスが割れないように、また、割れても破片が飛び散らないようにという配慮から紙でバッテンが貼られた。それを思い出す(と言っても、あたしはリアルタイムで知らないが)。

 


Nikon D200・31mm(35mm判換算46mm)で撮影・絞りF5.6・1/8秒・+2/3EV補正・ISO100・RAW[撮影日2006年9月25日]

 

⑨は日本橋久松町にあった飲み屋小路。その昔はもっと店があったらしいが、あたしが知った頃には数件しかなかった。

 


Nikon D100・18mm(35mm判換算27mm)で撮影・絞りF5.6・1/6秒・+2/3EV補正・ISO100・RAW[撮影日2006年9月25日]

 

⑩は反対から見た様子である。今はこの一角にマンションが建ち、景観は一変してしまった。

 


Nikon D100・35mm(35mm判換算50mm)で撮影・絞りF5.6・1/60秒・ISO200・RAW[撮影日 2005年9月9日]

 

さて⑪だが、銀座2丁目(旧・木挽町。後に銀座東2丁目)にあった寿司屋である。横が大きなビルというのはお分かりであろう。実は反対側もビルなのである。つまりビルの凹部分に建っている。これはビルが建つ際に、この土地の持ち主が――寿司屋が、ガンとして売らなかったのであろう。よって、ビルの谷間にちんまりと収まる形となってしまったのだ。いずれ寿司屋はなくなってしまったが、今のこの場所には違う店だが、ちんまりと収まっている。

 

最後は横浜駅西口からちょっとの新田間川(あらたまがわ)に沿って出ていた屋台の列である(⑫)。

 

FUJIFILM X-Pro1・XF18mmF2 R・18mm(35mm判換算27mm)で撮影・絞りF2.8・1/30秒・ISO320・RAW[撮影日2012年3月14日]

 

 

横浜駅西口の開発が始まった1955年(昭和30年)頃から不法に道路を占拠して営業する屋台が軒を連ねていたが、2016年(平成28年)1月末にすべて撤去されてしまった。不法かもしれないが、風情があってよかったんですけどね。

 

経時によっての老朽化等々の理由で、建物等はなくなっていく。その建物をひとつとっても、なくなればそこに決して同じモノは建たない。つまりそこで息絶えてしまうのである。そして人々の記憶から抹消される。思い出されることがあったとしても、それもだんだん薄らいでいく。写真は薄らぐことがないのだ――写真の中にいるのだ!

 

 

 

 

 

 

Profile

なぎら健壱

1952年、東京生まれ。70年、アルバム『万年床』で、フォークシンガーとしてメジャーデビュー。以後ラジオパーソナリティー、俳優、エッセイスト、タレントとして活躍。写真やカメラにも造詣が深く、写真家の顔も持っている。『町の残像』(日本カメラ社)など著書も多数ある。

 

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