top コラム自主ギャラリーの時代第1回 自主ギャラリーとは何か?(前編)

自主ギャラリーの時代

第1回 自主ギャラリーとは何か?(前編)

2022/08/09
小林紀晴

これから書き始める物語はどこへ転んでいくのか。自分でも見当がつかないが、まずは書き始めることが重要だと考えている。そうでもしないと、いつまでたっても、始まらない気がしているからだ。
私は数年前から1970年代以降の自主(運営)ギャラリーの動向について調べ始めた。以前から興味を持っていたからだし、かつて自分も短期間とはいえ「Days Photo Gallery」という自主ギャラリーを四谷で設立、運営した経験があるからだ。


調査を進めるなかで、当初考えていたよりも容易ではないことを次第に理解した。コロナ禍の影響があったことも否定できない。以前のように簡単に人に会って話を聞くことが困難になってしまったからだ。それでも少しずつ資料を集め、さらに自主ギャラリーを主宰している(していた)写真家へのインタビューを行った。どなたも、とても協力的だった(現在も継続中)。


調べる上で最大の壁は、過去の資料に関してだ。案内のDM、チラシ、会報誌、自主制作された写真集(ここでは自主ギャラリーに加え、そこで発行されたそれらに関しても積極的に触れ、扱っていきたい)などの印刷物が簡単には手に入らないことだ。ほとんど残っていないと言ってもいい。国会図書館を含めた公共、教育機関の図書館にもほとんど所蔵されていない。


ただ、正確にはどこかに眠っている可能性はおおいにある。当時その活動に参加していた誰かの本棚の片隅、押入れの奥のダンボール箱のなかだったりするのだろう。つまり散財していると言ってもいいし、仮に持ち主が亡くなったら、それはほとんど意味や価値がないものとみなされ、処分される可能性が高いだろう。おそらく、すでにその過程を経て、消滅したものも多くあるはずだ。


お話しを伺いたいと思いながら、この数年のあいだに故人になってしまった方もいる。間に合わなかったという思いを抱く。そういう意味では急ぐべき研究ともいえる。
 
なお一冊にまとまった資料としては、私が知っている限りでは書籍『INDEPENDENT PHOTOGRAPHERS IN JAPAN 1976-83』(東京書籍・1989年)くらいしか存在しない。この一冊は大変重要な資料であることを強調しておきたい。実際にずいぶんと助けられた。

 


自主ギャラリーの研究があまり進んでいない点に関して、写真史家の金子隆一はその著書『日本は写真集の国である』(監修・築地仁/梓出版社・2021年)のなかで自主ギャラリーの日本での評価について、短いながらも鋭い記述を残している。2015年にアメリカのヒューストン美術館で開催された「来るべき世界のために–日本の美術と写真における実験1968〜1979」展のカタログに自主ギャラリーについて以下の文章を寄せている。

 

「展示には全くと言ってよいほど反映されていない動向(筆者補足・自主ギャラリーの活動)についてのテキストがどれほど有効であるかという点はさておき、日本ではまったくと言っていいほど評価の軸を持ち得ていない動向を、積極的に取り込もうという意欲は並大抵ではないものである。つまり日本で評価されたものを再構築して問いかけるのではなく、まったく新しい評価の軸の発見を目指していよう」

 

 

的確な指摘である。自主ギャラリーに関して日本国内では残念ながら「評価の軸を持ち得ていな」いが、このヒューストン美術館はそこに価値があることを見出し、海外から逆照射するかたちで日本の自主ギャラリーの「まったく新しい評価の軸の発見を目指してい」ることに驚き、評価している。
 

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