前回まで2回に渡って台湾の写真雑誌『VOICES OF PHOTOGRAPHY 撮影之聲』(影言社)、さらにその27号(2020年)の「歴史與書寫専題 HISTORIES AND WRITINGS ISSUE」と題された特集の号に、2021 年に亡くなった写真史家・金子隆一氏の「自主藝廊的時 一九七〇年代 日本攝影的另隅」というタイトルの文章が掲載されていたことを紹介した。
この記事に関連して、思い出したことがある。以前に購入した一冊の展覧会の図録である。図録のタイトルは『FOR A NEW WORLD TO COME』(意訳すれば「来るべき新しい世界のため」といったところか)という。アメリカ、ヒューストンにあるヒューストン美術館(The Museum of Fine Arts,Houston)が2015年に発行したものだ。図録は大判でかなり立派だ(縦31㎝×横21㎝)。苦労して手にいれた。
展覧会の名は「For a New World to Come: Experiments in Japanese Art and Photography, 1968–1979」
2015年の3月から7月にかけてヒューストン美術館で展覧会が行われている。残念ながら、私はリアルタイムでこれを知らなかった。知っていたときにはすでに終わっていた(仮に知っていたとしても、わざわざ出かけるということもなかったはずだが)
ヒューストン美術館のホームページには当時の展覧会に関する紹介文が掲載されている。
https://www.mfah.org/exhibitions/new-world-come-experiments-japanese-art-and-photog/
以下のようなことが記されている。少し長くなるがそのまま引用してみたい(Google Translateにて英語から自動翻訳)。
- 1960 年代後半から 1970 年代前半にかけて、日本は政治的、社会的に混乱した時期を迎えました。日本は世界の舞台で新たなアイデンティティを確立しようと苦闘し、日本のアーティストたちはこの不安定な時代に適切に対応できる媒体を求めていました。『来るべき新しい世界に向けて: 1968 年から 1979 年にかけての日本の美術と写真の実験』は、初めて、日本の現代美術の形成における写真の役割を深く探究しています。
- この画期的な展覧会では、写真、写真集、絵画、彫刻、映画をベースにしたインスタレーションなど、約 250 点の作品が展示されます。この前例のない総括では、社会が急激に変化した時代に、29 人の日本のアーティストや写真家が、どのようにカメラを活用して芸術活動に実験的かつ概念的な変化をもたらしたかが示されます。
- 「来るべき新しい世界のために」は、 MFAH のコレクションから選ばれた作品と、東京国立近代美術館や東京都写真美術館など日本の提携機関からの貸出作品を展示します。この展覧会は、1970 年代の日本の芸術と写真における新しい方向性の熱心な模索に光を当てます。展示されている重要な実験的作品の多くは、日本国外ではほとんど知られておらず、米国の観客が見たことのないものです。
かなり斬新かつ冒険的な企画だと思う。まさに「日本国外ではほとんど知られておらず、米国の観客が見たことのないものです」という言葉の通りだろう。この展覧会は写真だけに限らないが、写真に限って話せば日本国内でも限られた写真関係者しか認識していない、かなり「コア」な内容だからだ。
アメリカ、それもニューヨークなどではなくヒューストン、テキサス州である。どれほどの人が日本の1960年代後半から70年代にかけてに興味を持っているのはかなり気になるところだ。
おそらく多数の鑑賞者がこの時代の日本に関する予備知識がないまま観たはずだ。できることなら、当時鑑賞者がどのようなどのような反応を示したのか聞いてみたいものである。
ちなみに図録は文章のほかにかなり図版も入っている。『Provoke』に掲載された森山大道の作品、『アサヒカメラ』に掲載された同じく森山の「アクシデント」、北島敬三がイメージショップCAMPで行った展示(壁面の記録)、中平卓馬、牛腸茂雄、大辻清司、田村彰英、石内都などの作品、荒木経惟の写真集『センチメンタルな旅』の複写、カメラ毎日の誌面、季刊『KEN』、『地平』 の表紙などの複写、WORKSHOP写真学校が発行していた冊子など多岐にわたるが、全体の方向性はかなり絞られたものであることがわかる。牛腸茂雄がかなり大きく紹介されているのが印象的だ。
台湾の雑誌もそうであったが、海外メディアに触れるのは刺激的だ。どのように日本の写真や写真家、その状況を捉え、認識しているかを俯瞰できるからだ。外からの視点によってのみ知り得る、気付かされるということは確実にある。
ここでも金子が寄稿した文章をみつけた。それも台湾の『VOICES OF PHOTOGRAPHY 撮影之聲』に寄せていたのと同じく、日本の自主ギャラリーを中心にした写真、写真家に関連する文章である。台湾の雑誌への寄稿の5年前になる。
図録の英文を日本語に訳してみた(DeepLによる自動翻訳であることをお断りしておきます)。当然ながらそもそもは日本語で書かれたもののはずである。それが英訳された形だ。文章の最後に「TRANSLATED BY REIKO TOMII」の記述がある。
金子の文章のタイトルは「Circa 1976 In Search of Independent Sites」という。訳せば「1976年頃 インディペンデントな場所を追い求めて」といった意味になるだろう。あらためて1976年は重要なのだと認識する。この連載で当初から何度も書いてきたが、この年、東京には自主ギャラリーが同時多発的に生まれた。
以下『FOR A NEW WORLD TO COME』より抜粋。( )内は小林の補足。
- 1976年という年は、日本の写真史の中で重要な意味を持つ年である。この年、「独立写真家(Independent photographers)」と呼ばれる人たちが突如として日本各地に大挙して現れ、写真の実践と理論のあらゆる面で新しい時代を切り開いた! 特に重要なのは、写真家の共同事業体やギャラリーのようなものであった「独立ギャラリー(Independent galleries)」の台頭である。
独立系ギャラリーでは、1976年に3つのギャラリーが誕生した。東京・新宿のイメージショップCAMPとフォトギャラリーPUT、そして沖縄・那覇の「フォトプラザ」と銘打たれたアーマンである。
ここではなぜか、同年に生まれたプリズム(Prism)には触れられていない。さらに当時日本がおかれた社会的状況についてかなりの紙幅で解説している。日本の事情に詳しくない海外の人たちを意識したからだろう。
- 独立系ギャラリーの設立は全国的なムーブメントとなった。 このムーブメントは、1960年代後半の反体制・反戦運動で活躍した団塊の世代を中心に推進された。
- 写真家たちが登場した1970年代前半から半ばにかけて、1960年代後半に沸点に達した若者のエネルギーに陰りが見え始めた。1972年に連合赤軍が引き起こしたあさま山荘事件は、反体制運動を悩ませた関連性の喪失を指摘し、1973年の第一次オイルショックによる経済危機は、それまで毎年驚異的な経済成長を遂げてきた日本の将来に不安を抱かせるものだった。
全国的な政治的無関心と日常的な自己満足という大きな背景の中で、若い世代は、メディアが飽和する社会の中で、ファッショナブルな職業としての写真に疑問を抱いた。
独立した若い写真家たちは、写真家の活動様式から脱却する必要性を感じていた。 彼らは主流の印刷メディアに掲載される写真の社会的要求に応えることなく、写真の最も純粋な形を追求した。
これらの説明があったあと、詳細な活動などについて説明、解説がなされている。例えばWORKSHOP写真学校の存在。さらに解散後、イメージショップCAMPが森山とWORKSHOP写真学校の森山ゼミのメンバーを中心に設立、運営されたことなどだ。
興味深い記述を見つけた。金子の個人的な独白である。
この頃、私は写真家になること(Being a Photographer)ではなく写真と関わる方法を模索していた。 新しいインディペンデント・ギャラリーの存在を知り、私は自分なりの道を模索し始めた。プリズム(Prism)の初日に私を連れて行ってくれたのは、友人の写真家、永井宏だった。 そこで初めて、平木(収)さんや注目の写真家・Kuwabara (桑原敏郎と思われる)さんにお会いした。 ちょうどその頃、私は写真集を収集することを自分の使命と決めていた。 暇さえあれば、歴史的、あるいは同時代の海外の写真家の写真集を片手に、例えばリー・フリードランダーやアルフレッド・スティグリッツなどを持って、プリズムを訪れ、メンバーや来場者と語り合った。 やがて、私の出会いの輪はプリズムからCAMP、PUTへと広がっていった。
私だけではなかった。 多くの若い写真家たちが、そのような出会いを求めていた。 東松は1976年10月、インディペンデント・ギャラリーの全国ネットワークの設立を決定した。「写真国」(1976-1977)である。 その事務所は当初、東松の事務所にあった〈後に私の自宅に移った〉。 機関紙「写真通信」を3号発行し、横浜市民ギャラリー(『インディペンデント・フォトグラファーズ』によれば神奈川県民ホール)で「今日の写真・展77」を開催。 この写真展は、東京、静岡、足利、沖縄のインディペンデント・ギャラリーのネットワークに参加する48人の写真家を紹介する大規模なものだった。
金子がこの図録に寄せた文章のなかに、これまでどこにも書かれていない大きな発見があったわけではない(少し期待してはいたのだが)。ただ、英語で書かれたものを翻訳しながら読み進めてみれば、やはり発見があった。正しくは違った心持ち、感覚が芽生えたとでもいおうか。
当然ながら、私はアメリカ人ではない。ただ、アメリカ、あるいは英語圏の読者がこれをどう読み解くのだろうか、とずっと意識しながら読んだ。当時のギャラリーのDM、告知(「WORKSHOP写真学校」の生徒募集のチラシには森山の有名な「三沢の犬」の写真が印刷されている)など、いわゆる「エフェメラ」(一時的な筆記物および印刷物で、長期的に使われたり保存されることを意図していないものを指す。そのため、しばしば収集の対象となる。Wikipedia参照)が多く紹介されている。
英語圏の人々にとってまったく判別がつかない日本語(漢字、カタカナ、そしてアルファベットの混在)を、彼らはどんな感覚で読もうとするのか、あるいは観るのか。これまで考えたこともなかった。
台湾の『VOICES OF PHOTOGRAPHY 撮影之聲』に触れたときにも似たことを感じたが、それとはまた違った感覚だ。台湾は同じ漢字圏である。簡単な言い方をすれば「東京」「写真」という単語(漢字)はブレることなく「東京」「写真」のまま両者のあいだでは理解されるが、それができないのだ。当たり前といえば当たり前すぎることだが、果たして彼らにはどう映るのだろうか。
何より強く感じたことは、やはり日本の写真はある時点まで(いや、現在もそうといえるかもしれない)、確実に集団、組織の力によって歩んできた、あるいはそれらが牽引してきたという事実の再認識だ。ただ誤解がないように付け足せば、もちろんこれらがすべてとは思っていない。海外在住者を含め、この流れとはまったく無縁、関係ないところで活動してきた優れた作家、作品も存在するからだ。
それでも、過去を振り返ったとき、日本の写真界における写真家自身による自発的な集団、組織による活動、運動の存在と大きさは無視できない。これは一体なんだろうか。改めて考えさせられる。日本人独特の感性、気質、文化?こんなつかみどころのない言葉では説明にならないし、不十分だろう。まだ問いは解けない。
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