自主ギャラリーの時代

第15回 PLACE M①

2023/11/30
小林紀晴
Place M(四谷4丁目)にて開催された「M展」(1997年12月22日〜28日)/資料提供:瀬戸正人

瀬戸正人の視点

 

日本でもっとも長く続いている写真家自身によるギャラリーは瀬戸正人が主宰している「PLACE M」だ。1987年12月に四谷4丁目に生まれ、現在も運営されている(2003年に新宿御苑前に移転し、現在に至る)。
今回から数回にわけて「PLACE M」、そして瀬戸について書いてみたい。
 
日本だけに自主ギャラリーはなぜ生まれたのか?そもそも自主ギャラリーについて調べるにあたり当初に掲げた疑問のひとつだ。機会あるごとに、そのことをさまざまな方に訊ねた。同じ質問を瀬戸に投げかけてみた。

 

Place M(新宿御苑)にて開催された森山大道展「記録」(2015年11月9日〜22日)/資料提供:瀬戸正人

 

「時々集まって酒を飲みながら、撮った写真をどうする、発表の場はどこにあるの?って議論になる。カメラ雑誌はある(インタビュー2021年1月時点)。でも一般の雑誌で俺たちの写真を使ってくれるところはないよねってね。ギャラリーだとニコンサロン、キヤノンギャラリー… そのほかのメーカー・ギャラリー。そこで発表するしかないんだよ。そこも公募だから、出して、選ばれたら展示できるけど、選ばれなかったら、どうするのって。だったら、俺たちでつくらない?場所、小っちゃくていいじゃん。1人2万ずつとか。そういう発想だよね。写真って基本的に一人でやっているから」
 
瀬戸自身がギャラリーを始めた理由はいくつもあるだろうが、森山大道からの刺激がけっして少ないないようだ。自主ギャラリーに関する数少ない資料『写真の会』会報(63号2008.6.5)の特集「自主ギャラリーという場所」(著・構成 高橋義隆)のなかで瀬戸は高橋からの質問に対し「森山さんの『ROOM801』 が渋谷にあったからね。追いかけるように僕らも始めた」と発言している。

 

『写真の会』会報(63号 2008.6.5)


同じく『写真の会』会報(65号2009.4.17)の「写真の灯台 自主ギャラリーの現在」著・構成 高橋義隆)という特集も森山の『ROOM801』の話題から始まる。

 

ちなみにこの『写真の会』会報での自主ギャラリーに関する特集を、個人的にはかなり奇跡的で貴重なことだと捉えている。自主ギャラリーを主宰する写真家(評論家含む)8名が一同に介した座談会を行っているからだ。これだけの数が集まり語っている媒体は私が知る限りほかにはない。高橋義隆の尽力が大きいはずだ。ちなみに参加者は以下の方々。瀬戸正人、尾仲浩二、牟田義仁(星玄人)、中藤毅彦、篠田俊之、有元伸也、太田通貴、長谷川明。そして司会は髙橋義隆(写真評論家)。

 

『写真の会』会報(65号 2009.4.17)

 

『写真の会』会報(65号2009.4.17)のなかで瀬戸は「先生(森山)がつくって、刺激されてね。メーカーギャラリーでできるのは、よくてせいぜい年に一回。下手したらできない。つまり自分でギャラリーをつくるしかないと思ったわけです。『自主ギャラリー』と聞くといまだに胸がキュンとしますからね(笑)」と語っている。


森山の『ROOM801』は1987年に設立された。つまり同じ年の暮れに「PLACE M」は生まれたことになる。なおこの座談会に参加している尾仲も森山の『ROOM801』に刺激を受けてギャラリーを作った一人だ。この連載のインタビューで尾仲は以前、以下のように答えている。


「その前の年に森山さんが渋谷の宮益坂のマンションというか古いアパートを借りて、自分のギャラリー〈room・801〉をつくったんですよ。87年ですね。僕、大工仕事でかかわって、ああ、いいなと思った。僕もやってみたいなと思っていたんですね。〈room・801〉は、それまでCAMPのように大人数でやっていたのを、一人でやったということに意味があるし新鮮でした。一人でできるんだということが」
自主ギャラリーの時代 第11回 ギャラリー街道(後編)参照https://photoandculture-tokyo.com/contents.php?i=2516
 
1987年に瀬戸はみずからギャラリーを設立することを決断し実行に移す。時代はバブルの始まり。ただし一人ではない。元「CAMP」のメンバーだった写真家・山内道雄との二人による共同運営だ。瀬戸によれば山内は「CAMP」がなくなったことで、新たな発表の場を探していたようだ。


「PLACE M」の「M」は何を意味しているのか。正人の頭文字Mと同じく山内のMからつけられた。ときどき森山のMの意味もここにはあるという記述やYouTubeでの発言を耳にしたことがあるが、それは誤りである。この時点で森山は参加していない。
 
なお瀬戸の著書『深瀬昌久伝』(日本カメラ社 2020)には80年代の自主ギャラリーの状況について以下のように記述している。少し長いが引用してみたい。

 


瀬戸正人 『深瀬昌久伝』(日本カメラ社・2020年)

 

一九八〇年代に入ると、オイルショックから脱した日本が再び息を吹き返していた。八年続いたCAMPは閉鎖されたが、その後に写真専門学校の森山・深瀬ゼミ生が「さくら組」を作り、四谷に「Mole(モール)」ができた。東北は八戸にCAMPメンバーだった中居裕恭の「北点」、同じCAMPメンバーの尾仲浩二が青梅街道沿いに「街道」を作った。森山さん自身も再び渋谷の自室で「ROOM・801」を立ち上げた。そして、一九八七年に僕はCAMPメンバーだった山内道雄と「PLACE M(プレイスM)を開設したが、しばらくして彼は出て行った。

僕は、一人で壁のすべての釘を打ち、何度もペンキを塗り替えてきたから辞めるわけには行かなかった。そこに中居裕恭が参加してくれたり、森山さんもMのメンバーになって紆余曲折あってもなお、今日までの三二年間続けてきた。(略)今では、新宿通り沿いに幾つもの写真ギャラリーが点在している。それらは僕らのそれぞれの庭であり、アジトだ。『未だ見ぬ、一枚を求めて』いつの頃からか、これが僕らプレイスMのモットーになっていた」(P138)

 

瀬戸は、尾仲と同じく東京写真専門学校(現・ビジュアルアーツ)での森山の直接の教え子である。尾仲は森山の強力な引力に導かれるように「CAMP」に参加した(本人曰く「CAMP」の末っ子)。尾仲よりも瀬戸の方が年上だから時代、世代的に瀬戸が「CAMP」に参加していてもなんの不思議もないが瀬戸はそのメンバーだったことはない。「CAMP」で開催された「森山大道写真塾」にも参加し、交流もあったようのだが…。そのことが私は以前から気になり、興味をよせていた。なぜ、瀬戸は「CAMP」のメンバーにはならなかったのか?私は率直な疑問を瀬戸に投げかけてみた。
 
次回へ続く

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