私は『カメラ毎日』の1980年のバックナンバーを確認してみた。北島が「写真集は4回出して、展示は6回」という言葉を確かめるためだ。写真展案内のページに当時の展示のスケジュールが細かく載っている。
『カメラ毎日』1980年1月号p166
1月号 1・15〜30 北島敬三「沖縄市」
2月号 1・15〜30 北島敬三「沖縄市」
3月号 2・21~3・5 北島敬三「写真特急便―沖縄No2」
4月号 2・21~3・5 北島敬三「写真特急便―沖縄No2」(3F)
5月号 5・1~15 北島敬三「沖縄No3」(3F)
9月号 9・16~30 北島敬三「沖縄No5」(3F)
11月号 10・16~31 北島敬三「沖縄No6」(3F)
スケジュールは号をまたいで重複して書かれている場合もあるが「No6」で終わっている。どういうわけか、誌面で何度確かめてみても「No4」の展示のスケジュールが記載されていなかった。ただ、別の資料を確かめてみると展示は7月1日から15日のあいだに行われたようだ(単純に『カメラ毎日』の誌面に掲載されなかっただけの可能性が高い)。
『カメラ毎日』1980年9月号p290
『カメラ毎日』1980年11月号p180
確かに北島の言葉の通り、「No6」に続く展示については掲載されていなかった。念のためその後の号にも目を通してしてみたが、なかった。文字通り、なかばで終了していた。
その後、北島は1981年に「CAMP」を脱会し、海外へ行くことが多くなる。最初に向かったのはニューヨークだ。なお森山大道が脱会したのも同じ1981年。
『日本カメラ』1981年1月号より。1981年12月号まで「写真特急便・沖縄」というタイトルで1年間連載された。
『インディペンデント・フォトグラファーズ』には以下のようなことが書かれている。
81年三月「CAMP」設立の呼びかけ人であった森山大道が北島敬三とともに脱会する。この、「CAMP」のシンボルであった森山の行動は、メンバーたちにとってもさることながら、周囲の人間たちに「CAMP」の時代が終わったことを痛烈に感じさせるものであった。だが「CAMP」はそこで終わることはなかった。さらなる疾走を3年間続けるのであった。
(『インディペンデント・フォトグラファーズ・イン・ジャパン 1976-83』東京書籍・1989年p133)
「CAMP」を辞めたのはなぜでしょうか?
「俺、ほとんど海外に行っていた。5年間ぐらい。ニューヨークを撮ったり、そのあと東ヨーロッパも1年半ぐらい行った。あまり東京にいないからという理由と、いわゆる蝿のマークと「CAMP」の集団制作みたいなことに対して、(自分は)違う場所に行っちゃったからさ」
これは前回、紹介した『カメラ毎日』誌面における「阿波踊り事件」などを指しているはずだ。
「自分だけでやるっていうこと。だから、それ以上いなくてもいいなと。不満で辞めたんじゃなくて、この辺でいいんじゃないかなと思って。あとは一人でやろうと思って。自然だったよね。そしたら、森山さんもそのとき辞めたんだよね」
最後に現在、自らが中心になって運営している「Photographers' gallery」について訊ねた。「Photographers' gallery」は2001年に設立して20年以上が経っている。20年続けることは容易なことではない。
Photographers' gallery(東京都新宿区新宿2-16-11-401)
ウェブサイト:https://pg-web.net/
ホームページには「写真家がさまざまな活動や人との出会いを通して獲得したリアリティーを深め、さらに交感してゆくための『メディア』なのである」と書かれている。北島らしい言葉だと感じる。展示だけにとどまらず、出版物、トークショーなど会場を使ったイベントなどを指すはずだからだ。
「昔、東京造形大学の非常勤講師をやっていて、そこの生徒たちが、卒業してから写真やめちゃうんじゃないかなと思って。だいたい卒業して翌年ぐらいまでは写真展やるんだけど、4、5年経ったら、なんとなくやめちゃうんだよ。それはつまんないなと思って。初めて教師をやったから自分も責任感がすごく強くて、何か、写真続けていくような方法ないかなって考えた。で、すごく単純で、「CAMP」じゃないけどさ、そういうものさえ持っていれば、例えばコンビニでバイトしても、ガソリンスタンドでバイトしても、自分は写真家だって意識でいられるじゃない。場があれば最低限続く、写真を続けていけると思ったのね。何もないとさ、写真(作家活動ではない依頼撮影など)で食べようとしちゃったり、そういう間違いが起きるからさ。で、生徒に勧めたんだよ。ちょっとやりそうなやつに」
まさにCAMPの再来ではないか。そんな印象を私はもった。
「(当時のメンバーで)今、残っているのは2人だけだけど。あと、元田敬三(写真家・当時、東京ビジュアルアーツの講師)も誘って、元田の生徒とかも集めて、それで総勢12~13人か14~15人になったのかな。だから、元田と俺が教師で、あとは生徒。だけど俺ね、最初は手伝うだけだと考えていた。あくまで生徒たちが作るのをサジェスチョンしたりする立場。だけど、やっているうちに、なんか面白くなってきて、自分も参加しようかなと思って。生徒のヘルプとして始めたのに、自分がやりたくなっちゃって(笑)。直感的にそう思った。でも、けっこう大変だったよ、最初は本当に。挨拶もできない。なんか一緒にメシ食っても『マジっすか』しか言わないようなさ、無礼者どもだからさ(笑)。まあ、それで生徒と一緒に始めたわけ」
そのとき、北島さんは47歳だと思います。当然ながら、すでに若者ではないし、写真家という社会的地位もあり、作家として脂が乗っている年齢という印象もあります。ただ、元気な上の世代も当然ながらいる。そんな世代、年齢のときに始めたことは関係あるでしょうか?
「初めて教師やったときの生徒には、すごい思い込みがあるんだよね。すごく付き合っちゃうというかさ(笑)。要するに教師としてプロじゃないからさ、生に付き合っちゃうところがあった。それともう一つはね、俺、「Portraits」のシリーズってあるんだけど…。あれをやっているあいだ、いわゆる写真家活動って全部やめたんだよ。制作だけにしたの。一切発表もしてないし、写真関係の仕事もしないし。一切関係を絶っちゃったわけ、写真の世界と。じゃないと、あれ、とてもじゃないけど続かないんだよ」
北島敬三 『Portraits + Places』(photographers’ gallery・2003年)
あのシリーズは長い印象があります。
「これまで20年ぐらいやっているんだけど、だいたい8年かそのぐらいやらないと内容が見極められないわけ。1年に1枚で8枚(8年分)くらい並べなきゃさ、何が起きているかって見極められない。そのぐらい時間かかる。8年経ってつまんなかったら、けっこう、つらい時間になっちゃうような怖さもありつつやっていたときだから。それがようやく少し形になってきたとこで、少し発表し始めた瞬間だったのかな。「Portraits」のシリーズを最初に発表したのってさ、2000年の横浜のポートサイドギャラリー。その翌年に「Photographers' gallery」を作った。だから、結果的には活動復活って感じもある。そんな自分の制作のペースもあって、少し社会と関わって発表していこうというタイミングだった」
ギャラリー機関誌『photographers’ gallery press』。2002年から現在までに1号〜14号、別冊1冊を刊行している。
「面白いのはさ、場所を探すじゃない。生徒と一緒に探したんだけど、レント(賃貸)の安いとこって、飲み屋街の薄暗い路地の4階ぐらい。お店できないようなとこが一番安いんだよ(笑)。それで結果的に行き着いたとこが2丁目、「CAMP」の近くだったわけ。やっぱりね、新宿2丁目って安いんだな(笑)。新宿が好きとか2丁目が好きなんじゃなくて、安いとこ探すと2丁目の雑居ビルになった。そこがまたちょっと面白おかしかったとこだけど」
最後に「CAMP」と「Photographers' gallery」の違いについて、現在どう感じているかをあらためて訊ねてみた。メディア、意識、心境などの違いにも含めて。
「CAMPのときは、ここから世に出ようみたいなさ、社会に認められる仕事を求めていた。むしろこっちは逆で、こういう小さい場所でやったほうがいいなと思った。社会的に発表しようというよりは足元で続けたい、知り合いの人たちに見てもらおうみたいな感じ。形は似ているけど、意味合いは違う」
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