top コラム自主ギャラリーの時代第2回 フォトギャラリー「プリズム」(前編)

自主ギャラリーの時代

第2回 フォトギャラリー「プリズム」(前編)

2022/09/16
小林紀晴

2022年3月のある週末、私は中央・総武線の大久保駅に降り立った。よく晴れた日の午後のことだ。時折、気まぐれに吹く風はまだ冷たく、冬の名残はあるが確かに春の訪れを十分に感じさせてくれるものだった。あとほんの少しで桜の開花が宣言されるだろうというニュースを耳にしたばかりでもあった。
 
私は大久保通りを東へ、つまり山手線の新大久保駅の方向に歩いた。総武線の大久保駅と山手線の新大久保駅のあいだはわずかで約300メートル、徒歩で5分ほどの距離である。アジア系のお店が軒連ねていることでよく知られている。ちなみにその中心は大久保駅ではなく新大久保駅周辺である。土曜日の昼時ということも関係しているのだろうか、意外なほどカップルが多い。


彼らが日本人なのか、アジアのどこかの国の国籍をもっているのかは、もはや判断がつかない。誰もがマスクをしていることも関係しているだろう。考えてみると、マスク生活が始まってもう二年がたつ。
 
そもそも新大久保駅付近にアジア系のお店が多いのは80年代のバブル期に歌舞伎町に韓国、タイ、フィリピン、台湾などのアジアからやってきた人たちが始めた店が多数できことと関係がある。最盛期には500軒も存在したらしい(『ルポ新大久保』室橋裕和・辰巳出版 2020 参照)。そこで働いていたホステス(多くは韓国人のようだ)が歌舞伎町から歩いて帰ることのできる家賃の安い新大久保周辺に暮らし始め、それにともない周辺に韓国料理店ができ、次第にコリアンタウンを形成していった。


それを呼び水のようにして、さらに韓国以外のアジア系の人たちもこのあたりに住み始め、やがて、アジア系住民は新大久保駅を超えて南側まで広がり、総武線の大久保駅周辺まで押し寄せていった。つまりは歌舞伎町を源流とした大河、あるいは歌舞伎町を起点とした扇状地の上を私は歩いていることになるのかもしれない。
 

 

新大久保駅が目の前という地点まで到着すると、右側に皆中稲荷神社が見えた。そのすぐ隣、新大久保駅側には交番がある。皆中稲荷神社の手前を右の路地に入ったところにかつて「プリズム」はあったはずだ。1976年3月から1975年10月にかけての1年半ほどのこと。開設されたのは今から44年前の同じ春のことだ。
かつてこの街に「プリズム」があった時代、このあたりはどのような顔をもっていたのだろうか。どのような雰囲気の街だったのだろうか。想像がつかない。少なくとも、これほどアジア系のお店も、人も、そして観光を目的として訪れる若者もいなかったはずだ。
 
皆中稲荷神社は一見、東京のどこにもありそうな神社に映った。それにしては参拝客が多い。正月でもないのにどうしてだろうか。若い女性が多い。縁結びなど特別のことにご利益があるのだろうか。気になりプリズムを探す前に境内に入ってみる。絵馬に書かれている文章に自然と目がいく。「コンサート(多くはジャニーズ)のよい席が当たりますように」という意味の願いごとが書かれているものばかりだった。あとで知ったのだが「皆中=(抽選などに)当たる」というご利益かららしい。
 
後編へ▶︎

関連記事

PCT Members

PCT Membersは、Photo & Culture, Tokyoのウェブ会員制度です。
ご登録いただくと、最新の記事更新情報・ニュースをメールマガジンでお届け、また会員限定の読者プレゼントなども実施します。
今後はさらにサービスの拡充をはかり、より魅力的でお得な内容をご提供していく予定です。

特典1「Photo & Culture, Tokyo」最新の更新情報や、ニュースなどをお届けメールマガジンのお届け
特典2書籍、写真グッズなど会員限定の読者プレゼントを実施会員限定プレゼント
今後もさらに充実したサービスを拡充予定! PCT Membersに登録する