top コラム自主ギャラリーの時代第26回 蒼穹舎 大田通貴

自主ギャラリーの時代

第26回 蒼穹舎 大田通貴

2025/01/20
小林紀晴

新宿御苑駅から歩いてすぐ、古いビルの3階にある蒼穹舎に大田通貴(みちたか)を訪ねた。午後の早い時間。そのまま近くの中華料理店へ。大田は紹興酒を、私はハイボール。さらに簡単なつまみを注文。外はまだ明るい。店の中国人女性と大田の会話から、大田が頻繁にこのお店を訪れていることが容易に想像できた。
 
大田の姿はずっと以前から目にしたことがあった。かなり遠くから。おそらく四谷3丁目にあったmoleでお見かけしたのが最初だろう。90年代半ばのはずだ。一見、写真集などを販売しているだけの店員とかアルバイトに映ってもおかしくないのだが、強烈な存在感を発していたことをよく覚えている。一種の違和感のようなもの。どうして、この人はここでいつも写真集を売っているのだろうか、という説明がつかない感覚。
 
私は間違いなく大田から写真集を買ったことがある。その際、会話を交わしたことはあっただろうか。おそらく、ない。大田はつねに多くの写真集や書籍に囲まれて、その向こうに埋もれるように座っていた。もし交わしたとしても、写真集を購入するとき、必要最低限の言葉のやりとりだけだったに違いない。そのことを私は最初に大田に話した。


「僕は若い頃はものすごい人見知りだった。もう言葉を口から出せない感じだった」


私もかなり人見知りなので、会話が成立することはあり得なかっただろう。ただ、私がいだく大田のそれは単純に人見知りという言葉だけではかたづけられない、その分だけ内面に何かを大きく抱えているさまとでもいおうか。それが違和感につながるのだと思う。
 
その後、PLACE Mでも大田の姿を見た。2000年代のはずだ。天井まであるガラス窓が特徴のそのギャラリーの窓側に大田は座っていた。間借りという言い方が相応しいだろうか。正直「え、こんな狭いところで?」と驚いたことを思います。そこが出版社「蒼穹舎」であり、写真集の小売をする書店だった。

 


蒼穹舎 東京都新宿区新宿1-3-5 新進ビル3F 
http://tatara.sun.bindcloud.jp/sokyusha.com/


大田の経歴をまずは確認しておきたい。


大田通貴(みちたか)は1956年に東京世田谷に生まれる。現在、68歳。早稲田大学政経学部を7年かけて卒業。在学中に通っていたエディターズスクールで知り合った方が食品会社(ハムの製造・販売)の社長の妹だったことから、その会社に就職。総務部に勤務する。


「事務所の事務系統は社長とその妹と僕とあと3人くらい、おばちゃんたち。売上管理から販売管理まで全部やっていた」


いずれ辞めるつもりで腰掛け的な感覚で入ったのですか? そんな気がしたが、あっさり否定された。


「なかなか楽しかったんですよ。25歳で入ったんだけど、30年満期の保険も入った。その頃って保険の利子がよくて。定年は60歳だったけど、その保険を払っていれば満期を迎える55歳で3,000万円手に入るはずだった。


割と人生設計をしていて、その3,000万円とは別に退職金も入るし、老後はそれをちょこちょこ使いつつ、のんびり文章でも書きながら暮らすのかなと思っていた」


意外だった。当然ながら、大田は現在その年齢を超えている。
 
大田は30歳の年、深瀬昌久の写真集『鴉』を出版する。私費280万円を投じてのことだ。その後1994年までに『鴉』を含め、8冊の写真集を出版する。しかし、定年までいるはずだった食品会社は1996年に倒産する。40歳のときだ。
 
「写真集を30歳から50歳までに20冊作ってみようと思っていた。(出版社として)独立しようとはまったく思っていなかった。ハム屋で働きながら、出し続けたいと思っていた」


つまりサラリーマンとして働きながら、そのみずからの稼ぎから写真集代を捻出し、出版するということである。1年に1冊。当然ながら、大田は写真家ではない。いうまでなく自分の作品集ではない。他者が撮ったものを、出版するということだ。

 


当時、そんな考え方の人はいなかったのではないでしょうか?


「それはいないですよ。人がやらないからやる。これはいけるよな、絶対、とか思っていた」
 
私はふとある思いに囚われた。正確には以前から時折、抱いていたものだった。

 

大田とはいったい何者なのか? 


この連載では多くの自主ギャラリーにまつわる方々を取材させていただき、執筆してきた。そのほぼすべてがフォトグラファーである。フォトグラファーがみずからギャラリーを開設、運営したり、自費で写真集を出版するといった内容がほとんどである。当然といえば当然である。私もその1人として彼らの行動、思考などを理解する場面が多かった。誰もが大枠でその流れのなかにあった。


それに対し、大田がまるで違うことは明白だ。


だから、いったい何者なのか?という問いが生まれたのだと思う。
 
結論を言えば、これはあくまで私の主観に過ぎないが、大田は圧倒的に文学の人だった。それも日本文学。2時間ほどのインタビューのなかで、それが根本の大きな核のひとつだと理解した。


大田と文学。おそらく、大田は誰かからあえて訊ねられない限り、文学についてみずから口にすることはないのかもしれない。過去のインタビューを見ても、私が知る限り、このことに関して深く触れられたものはなかった。写真と文学は近いようで、かなり距離があるともいえるだろう。小説家と写真家とは思索、なにより行動が違う。
 
撮る者ではない者が写真集を組むことはある。多くの場合、それを行う者を編集者と呼ぶが、大田を単純に編集者と呼ぶのには違和感を抱く。その範疇に収まらない、と感じるからだ。


それを私はうまく説明(言葉に)できないでいた。店頭に立つ大田の姿を目にしてきたことが影響しているからか。編集者は店頭に立つことがない。今回、文学が大田の根幹にあることを知って、その違和感に対する答えが少しだけ解けた気がした。
 
大田はこれまで300冊ほどの写真集を編んできた。ただ、それは大田のある一面を見ているに過ぎないのではないか。そんな思いに何度も襲われた。インタビュー中に写真家の名前は当然ながら何度も発せられた。ただ、それ以上に戦前、大正、明治生まれの小説家の名前の数の方が多かった。私も小説は好きで読んでいる方だと思っていたのだが、まったく知らない作家や作品名がすらすらとでてきた。さらに現代の小説家についての辛辣な言葉は容赦がなかった。

 


 
そのなかで、大田が何度か繰り返し口にした言葉がある。自意識、自己愛。


古くから親交が深い森山大道に関して話しているときも、このふたつの言葉、そして小説家の名前がでてきた。


「森山さんは太宰治になりたかったんじゃないか、と思います。森山さんは太宰がずっと大好きだから。太宰は弟子の面倒見がすごくよくて、でも、きつかったらしい」


森山にも重なるところがあったという。


「でもそれは山内(道雄)さんと、尾仲(浩二)さんといった自分の弟子系、そして、僕なんかの前だけ。よく覚えているのはあるとき、日本の写真界っていうのは…みたいな話題になったとき、僕がそうですよね、大変ですよねっみたいな返事をしたら、甘ったれんじゃねえ、って怒られた。お前は深瀬と俺の写真集を作ったんだから、この世界にすでに首を突っ込んでいるんだ、だから、お前は写真界のど真ん中にいるんだ、だからそんな甘ったれたことを言ってるんじゃない、って」
 
「太宰治の『思ひ出』とか読んでいると、あ、森山さんだみたいな感じと思うことがある。森山さんは人好きです」


それって、裏を返すと寂しがり屋ってことですか?私は訊ねた。


「そう、寂しがり屋。お前はよく一人で酒飲めるなと言われたことがある。俺は一人で飲むと地獄なんだ、若い時の悪い思い出ばかりやってきて、一人で暴れたくなるみたいな…。あと自己愛」


自己愛についてどんな話をされたのですか? 


「お前に自己愛と言われたくないって。俺がこれまで見た人間の中でお前は一番自己愛が強いって言われた。そうかなと思ったけど、おそらく自己愛の方向が全然違う。


実は今朝(このインタビューに対して)何を喋るのかなと思って考えていて気が付いたんだけど、森山さんって太宰治と三島由紀夫、あと永井荷風なんですよ。本当の自己愛なんですよ。ただ自己愛の扱い方って難しい、僕は自己嫌悪型の自己愛だから。もう自分が嫌だ、消えたいみたいな自己愛だと思う」
 
文学の流れから、唐突すぎるとは承知していたが、私は大田に詩人であり作家の金子光晴に関して訊ねてみたくなった。金子の代表作である『どくろ杯』『ねむれ巴里』『西ひがし』についてある。通称自伝三部作とも呼ばれている。金子が時代は昭和の始め、30代の頃の足掛け5年におよぶ上海、東南アジア、ヨーロッパへの旅の記録である。


ただ、3部作が書かれたのは75歳を過ぎてからのことである。そのことがずっと気になっていた。そのことと大田が語る「自意識、自己愛」が深く関係している気が急にしてきたからだ。当然のように大田は金子光晴についても詳しかった。
 
「金子は60歳くらいになるまで売れていないんです。売れていないと、年がいってから人生いろいろわかるんですよ。僕もずっと暇にしてるからわかるんだけど、過去が見えてくるんです。だから60歳くらいまで地味にやってきた人って、その後、書けたりするんです、過去がパーっと見える。自分の自意識が解けちゃう、消えるんですよ。自己嫌悪というか、そういうものが。


外に対する変な自分の意識が消えちゃうんですよね。たぶん、死ぬためにそういう意識をなくさせるように動物的にされているんだと思う。自意識なくなるから、どんどん出せるようになる。過去のいろんな自分が溶けて見えてくるんですよ、金子光晴はまさにそうだと思う。それが、60代とかで忙しい人だと全然気づかなかったりする」

 


 
そのあとで大田は60代に忙しかった(売れっ子だった)数名の写真家の名前を口にした。誰もが知っている名だ。彼らが60代に忙しかったことは明らかだ。


「あそこで人生を捨てればいいのに、そこからまた欲がでちゃう。そうなると人間ダメなんですよ。結構、みんなそうじゃないですか」


それが作家の性というものだろうか。


では、いま大田さんは自身の自意識と自己愛に関してどう感じていますか?


「今はちょっと溶けた」
 
もうじき70歳をむかえる大田に、「過去のいろんな自分が溶けて見えてくる」自伝的なものを書いてもらいたい。それを是非、読んでみたい。私の勝手な希望。

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