top コラム自主ギャラリーの時代第13回 自主ギャラリーFROG(前編)

自主ギャラリーの時代

第13回 自主ギャラリーFROG(前編)

2023/08/30
小林紀晴

『FROG LETTER』『FROG GAZETTE』全34巻(1989年1月〜1991年10月・FROG)

 

今回は、私自身と自主ギャラリーの出会いについて書いてみたい。1990年、今から34年ほど前のことになる。私は22歳で新聞社の社カメとして働きだして1年半ほどが経っていた頃のことだ。出会ったギャラリーは四谷三丁目にあったFROG。
 
FROGは正確にはFILM ROUND GALLERYが正式名で、それぞれの頭文字をとってFROGとなったようだ。英語でカエルという意味ともかけていたはずだ。ちなみにFROGに続いて同じ場所で引き継がれたギャラリーの名はMole(モグラ) という。FROGがオープンしたのは1989年の1月で最初の展示は1階のFROGⅠでの折原恵「HOMELESS TOWN」と2階のFROGⅡの松本美穂「軽作業」の展示である。建物は木造の一軒家で1階と2階にそれぞれギャラリースペースがⅠ、Ⅱと別々にあった。ちなみに同年2月には島尾伸三展、牛腸茂雄展が開催されている。

 

FILM ROUND GALLERYオープンのお知らせ

私どもは、ここに「FILM ROUND GALLERY(略称・FROG)」を開館出来ますことを、とても幸せに思っています。

『FROG LETTER』Vol.1/No.1(1989年)より

 

FROGの特徴は『FROG LETTER』(No.4から『FROG GAZETTE』という名称に変更)の発行だろう。毎月一回それは定期的に発行されていることに今更ながら驚く。デザイン、執筆内容(執筆陣)なども実に充実している。写真業界だけでなく、例えば吉本隆明が原稿を寄せていたりするから驚きもする。

 

『FROG LETTER』Vol.1/No.1(1989年1月1日発行・FROG)

 

発行・編集人は創刊号から2号までは津田基、3号から発行人と編集人が別となり12号までは矢野彰人、13号から最終号までが上野修が編集人となっている。


ちなみに創刊号の巻頭は写真家の島尾伸三が「カエルとヘビ」と題した文章を執筆している。その文章の最後は以下で締められている。
 

象徴(でき上がっているイメージ)を追いかけるのではなく、読める記号を備えた写真をここ「FILM ROUND GALLERY」で見ていけるなら、私はこの眼福にあずかれる事を感謝するに決まっている。これは幸福だ。

 
と結んでいる。
 
ちなみに最終号は1991年の10月号で34巻。つまり34冊発刊されたことになるずだ。この号はほかに比べて分厚く、実に32ページもある。そして同年の末にFROGは幕を閉じた。その後はMoleとなる。

 

 

『FROG GAZETTE』最終号(1991年10月・FROG)


『FROG GAZETTE』の1990年10月号(2巻10号通巻22号)と個人的体験を重ねてみたい。そもそも全巻を手に入れたのは、一昨年のことだ。写真集などを中心にした古書店のネットサイトから不定期に送られてくるダイレクトメールによって知った。全巻で10万円という値がついていた。その高値に一瞬迷ったが10分後には購入の手続きを始めた。この先、また同じものが出てくるとはとても思えず、誰かに先を越されてしまう前にという思いが強く働いた。
 
私はかつてFROGでグループ展を行ったことがある。それが冒頭で触れた自主ギャラリーとの最初の出会いで1990年ということになる。ただ、『FROG GAZETTE』のなかで、その展示に関しての記載を確認するまで、それがいつのことだったのか正確には思い出せなかった。『FROG GAZETTE』を何冊もめくりながら探しあてることができた。当初は1989年のことだと思い込んでいたのだが、記憶違いで1990年の秋、正確には10月16日(火)〜10月21日(日)に展示が行われたいたことが判明した。
 
『FROG GAZETTE』1990年10月号の9ページ目にその紹介が載っている。掲載されている名前は8名、写真も8枚。
 

プレ工房写真展 -Here and There-
 
ここがそこで
そこがここだと
これがそれで
それはこれだし
 
これはなんだ?
ここはどこだ?

 

そんな文章が書かれている。


果たして、誰が考え、書いたのか。メンバーの誰かのはずだが、少なくとも私でない。


その文字を囲むように8名の作品と撮影者の名前が載っている。作品はすべてモノクロ。モノクロ印刷なので当然なのだが、実際に作品もすべてモノクロだったはずだ。


プレ工房とは何か?


一切、説明がないので当時このページを観た方や、さらに当時作ったDMを手にした人も一体なんのことだかわけがわからなかったはずだ。いまだから気がつくことだが、明らかに説明不足だ。簡潔にそれがどのような集団であるかの解説はあった方がよかっただろう。メンバーの誰もが、おそらくそれまで学外で展示なんてしたことがなく、頭が働いていなかったのだろう。展示全体のあり方、見せ方ということがよくわかっていなかったはずだ。自分自身も含め誰もが20代前半で若く経験がなかった。


額装はすべてアルミフレームにブックマットという形式だった。いまのような多彩な見せ方は当時まったく一般的ではなかった。
 
プレ工房について簡単に説明すれば1988年、89年、90年頃に東京工芸大学短期大学部写真技術を卒業した作品作りを志す集団ということになる(正確には展示の際にほかの大学の写真学科卒の方も展示に1名参加)。


ちなみに今回、初めて気がついたのだが『FROG GAZETTE』の隣のページには「プロペラ26写真展 SAKURA」という、やはり集団?のグループ展が紹介がされている。記載された名前は11名。2日前の10月14日まで展示されていたようだ。そのなかに写真家・鈴木理策の名前を見つけた。小口貞秀という方の「Kさんへ」と題された長めの文章が添えられていて、それを読むとSAKURAとは樹木の桜に関してのことだとわかるのだが、果たして「プロペラ26」とは何かなのかの説明は一切ない。当時、知られた存在だった可能性もあるが不明だ。プレ工房と似たような集団だったのか?
 
プレ工房が生まれた背景は以下になる。


学生の頃は作品などをそれなりに制作し、もしかしたら作家的なことがこの先も続けられるのではないかと思いながら卒業し、それぞれが自立するための写真の仕事(就職)にはついたものの、当然ながら良くも悪くも確実に現実社会に組み込まれ、学生の頃のように作品と呼べるものとは程遠い写真(需要と供給の上に成り立っていて、その対価をいただく種類のもの)にあまり価値を見出せない、感じない(つまり青臭く生意気だったということになるのだが)という者たちが、まだ夢の続きを観たいという願望のもとにときどき集まって、まったく金銭的には見合わない作品と呼ばれるものを見せ合うようなことをしていた。いま思い返せばかなり純粋だったという見方もできるだろう。メンバーによって考え方は違ったかもしれないが、そんな集まりだったと少なくとは私は理解している。そんな同志的な仲間が周りにいたことは、当時、サラリーマン生活に嫌気がさして燻っていた私にとってはとても恵まれたことでもあった。


月に一回ほどの集まりを週末、新宿東口の地下にあった巨大な喫茶店カトレアで行っていた。記憶では禁煙席はなくて、煙が立ち込めていた。話が少しそれるが後で知ったことだが、まったく接点のない写真専門学校の卒業生が講師とともに「カトレア会」というものを同じ頃、同じく喫茶店カトレアで定期的に行っていたらしい。同じ時に同じ場所にいた可能性も十分にある。妙に親近感を覚えた。考えてみれば当時はあちこちのテーブルで何かを広げている光景をよく観た。ネットも携帯電話もないから、そもそも若者の行動範囲もその動きも随分と今とは違ったはずだ。

 

▶︎後編へ

関連記事

PCT Members

PCT Membersは、Photo & Culture, Tokyoのウェブ会員制度です。
ご登録いただくと、最新の記事更新情報・ニュースをメールマガジンでお届け、また会員限定の読者プレゼントなども実施します。
今後はさらにサービスの拡充をはかり、より魅力的でお得な内容をご提供していく予定です。

特典1「Photo & Culture, Tokyo」最新の更新情報や、ニュースなどをお届けメールマガジンのお届け
特典2書籍、写真グッズなど会員限定の読者プレゼントを実施会員限定プレゼント
今後もさらに充実したサービスを拡充予定! PCT Membersに登録する