かつて「FROG」があった場所。建物は改装されているが、現在も残っていた。
私だけ学年がひとつ上で、ほかは学年がひとつ下の者が多かった。ただほかの道から写真に転向した者もいて、年齢的には私より年長の者も数人いた。基本は同じゼミつながりだ。プレ工房の「プレ」とは英語の「PLAY」から来ていて、「PLAY」には「遊びという意味もある」とメンバーの一人が言った。つまり写真で遊ぶ集団。誰もがそれに賛成した。
正確にいつ、どのような経緯で発足したのかは、どういうわけか覚えていない。最初はおそらく誰かが誰かに声をかけたはずだが記憶にない。
動きだしたのはグループ展をする一年ほど前だろうか。とにかく定期的に集まり、写真についてさまざまな話をした。何か課題的なものが課せられるわけでも、講師的な存在がいるわけでもない。最近、こんな写真を撮った、こんなところへ行ってきた、こんな展示や写真集を見たということを話した。皆、不安で寂しかったのかもしれない。そう思っていたのは私だけかもしれないが。
私が会報誌のようなものを勝手につくって、配っていたことは覚えている。初めてインドに行ったときのことを「いざ、インドへ」と題して数回連載もした。すべてコンビニでコピーしてホチキスで留めるといった手作りのものだ。残念ながらいまは手元には残っていない。
「お酒を飲みながらやろうよ」という意見もでたが、私より年長の男が「それはやめよう、しらふでやることに意味がある」と思いのほか強く主張した。だから週末の午後、お茶を飲みながらということになった。それは正解だったと思う。飲み屋でお酒が入ったら、ずるずるとただの飲み会になってしまっていただろう。
途中で、グループとして何か具体的な活動をしようという話になった。印刷物を出すか、場所を持つか、展示をするか…と議論した記憶がある。
私は狭くてもいいので場所を持つことを希望した。つまり家賃を出し合って、まさに自主ギャラリー的なことをしたいと提案した。でも、あっさり却下された。他のメンバーはそんなことを求めてはいなかったようだ。何より金銭的なことも大きかったし、そもそもモデルケース的なものを私を含めた誰もが知らなすぎた。
これが当時の工芸大学短大の特色ともいえるかもしれない。これが東京綜合写真専門学校とか東京写真専門学校(現・ビジュアルアーツ)の卒業生だったらまた動きが違っただろう。すでにそれを実践している先駆者がいたからだ。当時の工芸大学短大は教える側もあまり作家的なことを重視していなかった印象があるし、自主ギャラリーを主宰している先輩がいるなんて話は聞いたことがなかった。そもその学科の名前が写真技術科で、技術が重んじられていた歴史の流れのなかにあったし、写真館の跡継ぎが多い伝統があり、学年の3分の1から4分の1くらいは確実にいた。そのなかでは作家的な動きをしていた方が珍しかったともいえる。そんな者たちの一部がプレ工房を形成していたということになる。一学年下により意識が高い者が集まっていたことは間違いない。そのなかには現在、お弁当の写真などで注目され、NHKの番組に時々登場する阿部了や鉄道写真家となった米屋こうじ(浩二)も参加していた。
展示をするに際し、私ともう一人のメンバーがFROGを直接訪ねて、グループ展を開きたいと相談に行った。相手は津田さんだったはずだ。会期の半年前くらいだろうか。レンタルのかたちで行えることになった。そこで正確な会期もフィックスされた。
「FROG」の後、ギャラリー/写真専門書店『Mole」に引き継がれ、2001年までこの場所にあった。
それが会期の少し前になって再度、確認すると、どういうわけか予約が入っていないということになって、二階のFROGⅡでもいいでしょうか?と言われて、随分と慌て、驚いた記憶がある。そちらはスペースが狭いからだ。その後、どんな経緯があったのかは忘れてしまったが、当初の通り1階のFROGⅠの広いスペースで行えることになった。もしかしたら会期をずらしたのかもしれない。残念ながらインスタレーションビュー(会場記録)は残っていない。そもそも記録を残しておこうという発想すらメンバーの誰にもなかった気がする。
2Fのミニギャラリー兼ショップのスペースが掲載されている。
『FROG GAZETTE』Vol.1/No.5 MAY,P12(1989年5月号・FROG)
私が展示した作品は4枚だったはずだ。その年かその前年の冬に青森に行って撮ったポートレイト。背景となる巨大な白いロール紙のようなものを持っていって、偶然に出会った人にその場で声をかけてお願いして写真を撮らせてもらった。意外なほど断られることもなく、数日の間にかなりの人を撮らせてもらった。その中から選んだものだ。冬の青森の路上で小さなスタンドを立てて、その上にロール紙をつけるだけの簡易的なものだから、少し風が吹いただけで倒れたりして、最後は使い物にならなくなってしまった。
学外での展示をするのは初めてで、こんなにも大変なのだと気がつくことが多々あった。展示の初日にはできる限り作家がいるようにするべきという常識も知らず、芳名帳を置くことも知らず、あとでゼミの先生から呆れられた。来場者は100名ほど。8人でやってその人数なのだから、ほぼすべてが知り合いというとになる。
『FROG GAZETTE』Vol.2/No.10 OCTOBER(1990年10月号・FROG)
プレ工房が解散したのはその展示が終わってすぐのことだ。正しくは解散ではなく、自然消滅といういい方の方が正しいだろう。
また集まろうとか、また次回の展示に向けて何かやろうという話は誰からも出なかった。定期的にカトレアで集まっていた会合も開かれなくなった。何かトラブルがあったわけではないし、ほかに特別な理由があったわけでもない。
「何も変わらない」
私はそんな思いに包まれた。
現実って厳しいなとも感じた。
うまく言葉にできないのだが、充実感というものはなく、どこか虚しい気持ちもあった。そんな感情に襲われたことに驚きもした。これが個展だったら、また違ったのかもしれない。それは、おそらく私だけでなく、メンバーの多くが似たようなことを感じていたのではいだろうか。だから、最後に打ち上げをした記憶もない。
それぞれが現実を目の当たりにして、夢の続きを見ている場合ではないと初めて気がつく瞬間だったのかもしれない。
たった1週間のグループ展で何かを期待していることの方が間違いで、何か大きな変化が訪れるはずもないことは、いまだったら理解できる。それよりこれを第一歩として、とにかく地道に続けていくことがどれだけ大事なことか。そんなことは想像もしなかった。誰もが若かったし、何より目の前の現実に追われいた。
今回、この原稿を書きながら強く感じたことは、ほとんど記録が残っていないことだ。記憶が薄れていくのは仕方がないこととしても、何故、いろんなものを捨ててしまったのだろうか… プリントもない。捨てたという記憶すらない。ただ幸いネガだけは残っている。
『FROG GAZETTE』の1990年10月号。いまから33年前。そのなかのたった1ページにも実はこんな背景とドラマが詰まっている。だから全巻の膨大さを考えると、隠されたさまざまなドラマと感情と物語の気配にしばし圧倒される。
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