「プリズムに参加した谷口さん、桑原、住友、平木さんもそうだと思うけど、彼らって、みんな、東京の西側というか、中央線沿線から世田谷なんですよ。僕は「世田谷系の人たち」と呼んでいたんだけども。だからなぜプリズムが新宿(新大久保)なのかは、いまだにわからない。誰があそこにつくろうと言い出したのか…」
大西が口にした「世田谷系の人たち」という耳慣れない言葉。私はそれに妙に惹かれ、興味を持った。その後、調べるなかで、「プリズム調」という言葉と深くまったく無縁ではないことを知ることになる。
「プリズム調」
何度か耳にしたことはあった。ただ、どのようなものを指すのかは、まるで想像がつかないでいた。
ちなみに『インディペンデント・フォトグラファーズ』には《「プリズム」的色彩》《「プリズム」的写真》という言葉が記されている。同意語と考えていいだろう。
「特に風景ということで言えば、(プリズム調は)日吉の代名詞みたいなものになっていくんですよ、以降もね」
大西は『写真批評』を手に取り、あるページを開いた。
「これ、『写真批評』の6号。この特集、《『記録』をめぐって》というのだけど、谷口さんの、「世田谷における残雪の記録」という作品、これがすごい象徴的な写真です。世田谷の路上の残雪をそのまま撮っていくシリーズなんですよね。非常にストイックで、当時、僕なんかは、何が面白いんだろうみたいな思いで見ていた」
少し理解できた気がした。
ちなみに『インディペンデント・フォトグラファーズ』には「プリズム調」について「無味無臭の風景ばかりであった」という記述もある。おそらく同様のことがらを指しているはずだ。
「プリズム調という写真のスタイルというか、方向性というのは、それは谷口さんの影響が大きかったのでしょうか?」
「それはあると思います。日吉の授業形態から言うと、重森弘淹先生が「日常性」という授業を持っていたんです。「日常性」というのは、「イベント」の反対みたいな。実際に「イベント」って授業もあった。「イベント」を担当していたのは、あの『週刊朝日』とか、『アサヒグラフ』とかをよくやっていた秋山忠右さんで、割と週刊誌的、月刊誌的な発想で、学生に1年間ライフワークを持てみたいな、そういう授業だったんです。
『写真批評』季刊・第5号(東京綜合写真専門学校出版局・1974年5月)
「日常性」というのはその反対で、けっこう難しい授業をやっていたと思いますね。そこには写真論的なものも挟まれていた。評論家である重森弘淹がやる授業なので。
その授業を取った人はたぶん(ギャラリー・プリズムの同人に)多かったはずですね。特に風景ということで言えば、以降、日吉の代名詞みたいなものになっていくんですよ」
ちなみに その後、写真家・土田ヒロミが講師としてスナップショットをメインとした授業を行うようになり、土田の「砂を数える」に代表される「群衆写真的」が日吉の主流に移っていったという。さらに「コンセプチュアルな写真を撮る人たちが日吉から発生し」、それが自主ギャラリーの「OWL」「フロッグ」「モール」などにつながっていった」のだという。
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