top コラム自主ギャラリーの時代第11回 ギャラリー街道(後編)

自主ギャラリーの時代

第11回 ギャラリー街道(後編)

2023/07/05
小林紀晴

 

「その前の年に森山さんが渋谷の宮益坂のマンションというか古いアパートを借りて、自分のギャラリー〈room 801〉をつくったんですよ。87年ですね。僕、大工仕事でかかわって、森山さんの展示の後に、僕も2週間展示させてもらった。ああ、いいなと思った。僕もギャラリーやってみたいなと思っていたんですね。〈room 801〉は、それまでCAMPのように大人数でやっていたのを、一人でやったということが意味があるし新鮮でした。一人でできるんだということが」

1987年6月20日〜30日、room 801・森山写真研究室で開催された、尾仲浩二写真展のDM

 

room 801での会場風景とスナップ写真(資料提供:尾仲浩二)

 

ーそれ以前に写真家が一人だけでやる自主ギャラリーってあったんでしょうか?

 

「いや、ないでしょうね。やっぱりグループだったと思いますね。これなら自分でもできるかなって。だから、結局、その事務所スペースを借りた。ただ大場さんと中居さんは抜けちゃうんですよ。その代わりに藤田(進)さんという人が入って、二人だけ残っちゃった。別に俺たち、借りたくて、ここ、借りたわけじゃないけど、森山さんに刺激を受けて、じゃあ、僕、ここに住んで、ギャラリーにするからと思ったから、藤田さんに僕だけのとこにしたいんだけどっていう電話をしたら、彼も一緒にやると言った」


このとき、尾仲は28歳。あと2年間、30歳までに何かできなければ、キッパリと写真を辞めるという思いを密かに抱いていた。


「ほんとにそう思っていました。それまで何もやっていなかったからね。そのCAMPで、1回、写真展をやっただけで、そのあいだの4、5年、うろうろしているだけでね、写真も焼いてないし、まあ、どっかで踏ん切りつけなきゃいけないだろうと。で、まだ30歳だったら、社会復帰できる自信はあった、勤め人になれると思っていたので」


尾仲が口にした「社会復帰」という言葉に興味をおぼえた。社会復帰という感覚があるということは「自分はそもそも社会の外にいる」という認識から来ていると感じたからだ。


「はい、アウトローだと思っていましたよ、完全に、うん。実際、当時、写真をやっている奴なんか、アウトローばっかりだったと思うね。一年間、毎月連続展をしました。最初は月に3日間だけしか開けなかったんですけど、3日じゃ短いと言われて月に5日、開けるようにしたんですね」


連続展は以前、この連載でも触れた北島敬三の「CAMP」における「写真特急便」の連続展から明らかに影響をうけたもので、その継承といえる。

 


 

一九八八年四月一日、街道オープン。会期はたったの三日間。開店時間は十二時から夜の八時まで。青梅街道成子坂下の角地に建つ4階建ての小さなビルの三階。螺旋階段をぐるぐると登り鉄の扉を明けると銀色の壁に写真が並んでいる。

『あの頃、東京で・・・』(尾仲浩二 極・私家版2015改訂版 P53)

 

「CAMP」解散からちょうど4年後のことだ。尾仲はここで実に32回の「背高あわだち草」展示をすることになり、その成果はやがて1991年に蒼穹社から出版される写真集「背高あわだち草」に結実する。なお1年間「背高あわだち草」の連続展を行った後、連続展をやってもらうことを条件にギャラリーを外部の方にレンタルすることにした。


「月に二、三本のレギュラー展示で街道は廻っていくようになり、毎回来てくれる人もだんだん増えてきて街道は賑やかになっていった」

 

残念ながら、その頃の会場の記録写真はほとんど撮っていないという。確かに今と違って、当時は会場写真(現在はインスタレーションビューと呼ばれ、記録しておくことは当たり前となったが)を残しておくという発想をもった者は意外なほど少なかった。実は「CAMP」についても同じようなことがいえる。

 

Gallery 街道で開催された、尾仲浩二写真展「背高あわだち草」案内状


尾仲によれば、「途中でメンバーが入れ替わっていることもあって全体を把握できている人もいない。およそ八年の活動期間に参加したメンバーが何人いたのかさえ正確にはわからない。森山さんの記憶だと三十人はいたようだ」という。
 
「背高あわだち草」の連続展の作品は、地方に行って撮った写真が多かったんでしょうか?


「そう。途中から、もうほとんどそうなりました。毎月、どっかに短い旅に行って、撮って、帰ってきてって。だいたい2泊3日くらいです。1週間とか行く余裕はないですね。バイトしながら行って、現像して、葉書をつくって、案内状を送って、これを足かけ4年続けました」


時々しかお客さんが来ないギャラリーで、自分の写真に囲まれて過ごす長い時間。それは自分が撮った写真が自分に教えてくれる時間でもあった。


「客がいない時間のほうが長いですからね。自分の写真を見ているしかない。だから掛け替えてみたり、順番を変えてみたり、ときには張り替えてみたりとか。お客さんが来て、どの写真をじっくり見ているかのかっていうのが、一番教えてくれますよね、ゲームをやっているんですよ」


ーゲーム? 

 

「はい。次の展示のときに、あの人はこれにも反応するだろうな、みたいなことをゲーム感覚でやってました。結構、自信のある写真をわざと隅っこのほうに置いてみたりとかして。その写真の前で(前回来た)その人が止まっていれば、よし、よしってなる。どういう写真が求められているか、おもしろがられているのかが、背中でわかる。こっちからどの写真がいいですかなんて、絶対聞かないから。背中を見ているだけが意外とわかる。そういう駆け引き、ゲーム性がおもしろかった」
 
1992年に街道は閉鎖。その後、かなりの時間を経て2007年に尾仲は同じ「街道」という名のギャラリーを阿佐ヶ谷で始める。

 

2007~2014年、南阿佐ヶ谷にあったGallery 街道

 

「おもしろい物件があると聞いて、3畳が3つと4畳半で5万円みたいなとこだったのね。でも、これはただの昔の下宿というか、アパートなので、こんなとこは住めないよって言ったんだけど、結構きれいな物件で、ここでギャラリーをやったら、おもしろいんじゃないかなと閃いて。家賃、安いし、まあ、簡単。その辺は維持できる。途中からメンバーを集めて。で、年に2回ぐらい写真展が回ってくるというやり方をしていた。やっぱりレンタルにするとなかなか大変じゃないですか。やる人がいないと家賃、入らないし。なので、メンバーでもう回すというのを基本にした」

 

ギャラリーの展示情報などを掲載していた『ギャラリー街道通信』


かつての「CAMP」や「街道」とは違って、「楽しむ場」とも書かれていたかと思うのですが。


「ああ、そうですね」


やっぱり前の、20代終わりのヒリヒリする感じとは大きく違ったのでしょうか?


「ああ、やっぱり全然違う。ああ、全然、全然違いますね。ほんと楽しむ感じです」
 
現在も「街道」は存在する。中野駅から歩いて10分ほどの場所にある。ちなみに、土日しかオープンしていないので訪れる方はご注意を。けっして無理をしないことが継続の秘訣だろう。

 


Gallery 街道

東京都中野区中野5丁目14-5

https://kaidobooks.jimdofree.com/

 

Gallery街道 オープニング展チラシ(2016年)

 

なお、尾仲の特徴は紙の媒体にも力を入れている点だ。


「2カ月にいっぺん『街道通信』というものを出していました。ミニコミをつくるのが好きだったので、案内状も兼ねてね。出版物は好きですね。ちょっと病気だと思いますね、なんかつくっていないと気が済まないので。阿佐ヶ谷の「街道」は、大家さんが亡くなって、物件、立ち退きになったんですよ。それで解散したんですけど、そのあと、なんかやることなくて、じゃあ、印刷物ならつくれるなというので、そこからいろいろ始めたんですよね。うん、印刷物はいいなと思う。今、比較的安く編集、印刷できるようになったし。素人ながら、全部、データも自分でつくれるようになったので、Mac一台あれば、つくれちゃうから。だからこれからもいろんなことをやってみたい」

 

責任編集を尾仲が務め、ギャラリー街道メンバーらによる写真同人誌『街道マガジン』(2015年に創刊)

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