新宿2丁目に存在した「CAMP」の最寄駅は新宿御苑駅(ただし新宿三丁目駅から歩くこともたやすい)。
私は新宿御苑駅の改札を抜け、地下から地上へ続く階段を上り、最短と思われる路地へ折れた。すると、思いがけず巨大な仏像の背中が視界に飛び込んできた。このあたりを訪れるのは初めてではないが、こんなところにこんな仏像なんてあったっけ?そんな思いのまま横切ろうとしたのだが、急に気になり足をとめた。
太宗寺という古くからあるお寺のようだ。門の横にある案内表示に目がいった。始まりは1596年とある。江戸幕府成立の数年前ということになる。さらに新宿御苑一帯を下屋敷としていた「内藤家の信望も得」とある。内藤家が信州高遠藩の藩主を指していることはすぐに分かった。新宿御苑あたりがかつて内藤新宿と呼ばれていたのはそれゆえだ。
「内藤家の第5代、正勝のお墓」がこの境内にいまもあるとも記されていた。さらに「7代清枚以降の歴代当主や一族」もこのお寺にまつられているという。そのことを知ると、私は俄然、そのお墓を確かめてみたくなった。
境内へ足を踏み入れた。すると「太宗寺の文化財 順路」という看板を見つけた。境内の一方が広い墓地になっていて、その正面、一番奥まった場所に内藤正勝(内藤家墓場所)の墓石があった。新宿区指定史跡に指定されているようだ。すぐ横の立て看板には「信州高遠の藩主(元禄四年より幕末まで)をつとめた譜代大名の墓場です」とあった。
話がさらに「CAMP」からそれていくがお許しいただきたい。
信州高遠藩という響きはとてもなじみが深く、懐かしくもある。私は長野県諏訪の宿場町の出身だ。背後には西に連なる山々が迫っているのだが、いまではほぼ廃道となっているだろう峠道がそのなかにある。そこを「高遠の殿様が参勤交代の際に通った」と、子供の頃、本当によく聞かされた。山を超えたところが高遠だ。親や祖父や、小学校の先生からも、どうしてこれほど繰り返すのかというほどさんざんに。こんな急で険しく狭い山道を、籠に乗った殿様が本当に通れるのか?と疑問にも思ったが、本当のことのようだった。
その一帯には山菜採りや学校の遠足でもよく足を踏み入れた山域だ。当然ながら「高遠の殿様」には親しみがわいた。私にとって高遠という場所は諏訪よりかなり辺鄙で交通の便が悪い地、ただ高遠城址だけは桜で有名、という印象だったのだが、上京してから新宿御苑が高遠藩の屋敷だったと知ったときは本当に驚いた。なんであんな田舎の藩が?という感じだった。同時にそれは実に誇らしい気持ちにさせてくれた。
高遠はいまも鉄道も高速道路も通っていない地域である。県内でもかなりアクセスが悪く、けっして大きな町でもない。どこか忘れ去られた町という印象がある。諏訪の方がよっぽど都会だというのに、どうしてそんな山奥の藩が力を持っていたのかずっと謎だったのだが、端的にいえば徳川家康に仕え、天下統一に大きく貢献した「譜代大名」というところに行き着くのだろう。いずれにしても高遠、内藤家というという存在は、私にとって身近で、親しみがあり特別なものなのだ。まったく個人的理由によるが、その歴史の一端にこんなところで唐突に触れられたことに少なからず興奮した。
そのあとで、やっと私はかつての「CAMP」があった場所へ向かった。
偶然だがそれはお寺の、さらには墓地のすぐ背後にあった(この写真の背後の真ん中の最も高い灰色のビルのところ)。内藤家のお墓と「CAMP」は壁一枚を隔てて背中合わせだったのだ。このことに、なんの意味もないだろう。ただ重要な個人的体験となった。
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