前回触れたように尾仲浩二は「CAMP」解散後、しばらくたってから、自らギャラリーを主宰することになる。幾度かの中断はあったが、現在まで自主ギャラリー「街道」を運営している。その発端となった思いを以下のように綴っている。
そもそも僕が街道をやろうと思ったきっかけのひとつに、CAMPで僕が教わったことを誰かに伝えなければいけないという思いがあった。いわゆる自主ギャラリーと呼ばれている日本写真独特なスタイル、それがCAMPが解散してから途絶えていた。最後の自主ギャラリーCAMPの末っ子だった僕にはそれを次の世代に手渡す責任があるのではないかと思っていた。
『あの頃、東京で・・・』(尾仲浩二 極・私家版2015改訂版 P76)
『あの頃、東京で・・・』(尾仲浩二 極・私家版2015改訂版)より
かつて森山大道が尾仲に向かって口にした「俺たちがどうやっているかを見ておけ」という言葉に込められた思いの継承だと感じたのだが、考えすぎだろうか。いずれにしても、こうして自主ギャラリーが次の世代へ継承された事実、発言を記述として残した尾仲の仕事は貴重だ(特に意思などを伝える発言は記録としてほとんど残っていない)。
上記のことについて尾仲に再度確認してみた。
ーその思いは強かったのですか?
「その意識はありました。実際、初期の街道にかかわった人たちが、いくつかギャラリーをつくっていくわけで。楢橋(朝子)さんが〈03FOTOS〉をつくって、関(美比呂)くんが〈ガレリアQ〉をつくって、また、もっと小っちゃいところもね、地方にあったりとかしました。背中を見せたかったということですよね。やっぱり、少人数の新宿写真村じゃないですけど、〈街道〉も新宿にあって、その辺のつながりは、まだあったんだよね。そういう人たちが街道に集まってくれたので」
ただ、そもそも尾仲が1988年に新宿でギャラリー「街道」を始めたきっかけは、けっして積極的なものではなかった。
「CAMP」に参加していた大場和裕と中居裕恭が、「CAMP」解散後に二人で借りた西新宿のスペースに呼び出されたのが始まりのようだ。
「たぶん大場さんと中居さん、二人で借りたんだと思うんですね。で、僕も西新宿に住んでいたので、ちょっと来いよと言われて、行ったら、こういう場所を借りたから、なんかおまえも参加しろって言われて、何をやるのか、まったくわからないまま。たぶん彼らはギャラリーをやる気はなかったんですよ。ここを事務所にして、仕事を取ってくるみたいな話をしていたけど、僕は写真で仕事なんて考えていなかったので。雑誌とかで、やれると思ったのかなと思うけれど。こっちはもうね、アルバイトしながらなので、何に使うかわからない家賃を払うの、イヤだなと思ったけど、もうなんか、そういう社会みたいな、もう親分、兄貴に言われたら、はい、と言うしかないみたいな状況だったんだよね、きっと」
『あの頃、東京で・・』(P44-45)にはその時のことを以下のように書かれている。
一九八五年、西新宿、成子坂下。青梅街道に面した角地に建つ小さなビルの三階。CAMP時代の先輩ふたりに呼び出された。
ふたりは少し前からこの場所を借りていたようで、そこの共同運営に僕も誘われたのだ。家賃や光熱費を三人で分担すれば、月に二万円で済むからと言われた。
(略)
でも先輩ふたりに囲まれて酒を飲まされてしまうと、この場所で何かやれそうな気にもなってきて、意思の弱かった僕は断ることができなかった。
当時の写真界の状況についても書かれている。
当時の僕らの写真をとりまく状況は、八十五年に「カメラ毎日」が終刊し、「アサヒカメラ」も編集部が大きく変わり、木村伊兵衛賞は「RAKUEN」の三好和義さんが受賞するといった時期で、僕たちのような写真はメーカーギャラリーでの展示なども難しく、自ら場をなくしてしまった元CANPYには行き場がなかった。
私ごとだが、この時期は私が写真を勉強するために上京した頃と重なる。通い始めた東京工芸大学短期大学部は最寄り駅が丸の内線の中野坂上駅で青梅街道と山手通りが交わる交差点付近だ。成子坂下からも十分に歩ける距離だと後で知った。
実際に尾仲は中野坂上界隈をこの頃、頻繁に歩いていたようだ。「中野坂上こがね食堂」と説明が入った写真が『あの頃、東京で・・』には掲載されている。
ただ、私は当時、当然ながらそんなことを知るよしもなかった。自主ギャラリーという存在自体も「CAMP」すら知らなかったのだから。
ちなみに尾仲が書いている三好和義が「RAKUEN」により史上最年少で木村伊兵衛写真賞を受賞したことはよく憶えている。工芸大に入学した春のことで、同級生の誰かがその写真集を持ってきたからだ。
ちなみに尾仲は『マタタビ日記』(KAIDO BOOKS・2020年)のなかでも中野坂上について触れている。巻末に、2001年に刊行された写真集『Tokyo Candy Box』(ワイズ出版)の予約特典として写真データとコメントを書いた『野暮帖』というものをつくったようで、そこからの抜粋の文章が掲載されているのだ。
尾仲浩二『マタタビ日記』(KAIDO BOOKS・2020年)
「12・13 – 1999年 夏 中野坂上」(『マタタビ日記』の特別付録「Tokyo Candy Box 野暮帖」)のところに「タヌキを飼っていた鉄工所などなど」という記述があった。私はそれが長いあいだ気になっていた。実は私も中野坂上の山手通り沿いの鉄工所らしき町工場的な木造の建物の軒先で「タヌキ」ではなく「サル」が飼われているのを見たことがあるからだ。「タヌキ」という記述を見て、すぐにその「サル」のことを思い出した。明らかに手作りの木製のちいさな鳥籠のような檻のなかの止まり木にサルが寂しそうにうずくまり、いつも通りを見ていた。中野坂上はあのサルだけじゃなくて、タヌキまで飼われていた街だったのか、という不思議な思いがしたのだ。
尾仲浩二『Tokyo Candy Box』ワイズ出版写真叢書-9(ワイズ出版・2001年)
「サル」を飼っていた鉄工所らしきところは通学路の途中だったので毎日、見ることになった。田舎から上京したばかりの私にとって「東京ってすごい」と思ったのは、新宿の高層ビル群でも人混みでもなく、実は「東京ではサルを軒先で飼っている」ことへの「すごい」だった。
このことを尾仲に訊ねてみた。
ーそういえば、どこかに書いてあったと思うんですけど、なんかイノシシを飼っているって…(私の記憶がすでに曖昧でタヌキをイノシシと間違えて質問してしまった)
それに対する尾仲の答えは、意外なもので、
「ああ、サル。サルじゃない? 坂上のね、鉄工所のところに。こっちから行くと、手前だよ。左側。左側の手前」
「あ!ですよね」
「うん、坂上に向かっていって。うん、そうそう」
「山手通りを上っていって、左側」
「そうそう」
「記憶が一致しました!!」
あの「サル」の存在を尾仲が知っていることが妙に嬉しかった。間違いなく、当時、尾仲と中野坂上界隈ですれ違っていたはずだという確信を得た。
話が少し本題からそれてしまった。
(後編へ▶︎)
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