CAMPが発行した会報誌『IMAGE SHOP CAMP VOL.1 OR LAST!』(1980年)
日本の写真界において「イメージショップCAMP」(以下「CAMP」)の名前はいまでもけっして廃れていない。いや、逆に伝説的な意味合いすら感じるといったら大袈裟か。
1974年に荒木経惟、東松照明、深瀬昌久、細江英公、森山大道、横須賀功光らによってスタートした「WORKSHOP写真学校」は1976年の3月31日で解散したのだが、そのわずか2ヶ月後の1976年6月5日にCAMPは産声を上げた。ちなみに「プリズム」が誕生してからわずか3ヶ月後、さらに2ヶ月半後には「PUT」が開設されるタイミングだ。声高に語られることはあまりないが、いかに1976年という年が日本の写真界にとってのターニングポイントであり、さらに濃密な数ヶ月であったかがうかがえる。
北島敬三『CAMP 1979』(2015年・スーパーラボ)より
『インディペンデント・フォトグラファーズ』の序文の冒頭には以下のような興味深い文章がある。
誕生の年1976年
1976年という年は日本の現代の写真史のなかでも、きわめて重要な年でありながら、今までどの写真雑誌、関係誌を見ても、この年が取りあげられたり、その出来事について多く語られたことはない。1976年という年は、日本の写真にとってまったく新しい世代の誕生と、新しい写真の時代の幕開けを意味しているというのにだ。作品、行為、考え方、そのどれもがある種の時代性をともない、それも同時多発的に続々と新しい写真、写真家の芽生えた年であったのにである。
果たして「CAMP」はどのような場所にあったのだろうか。活動以前に、具体的にどこに存在していたのかということに私は興味をひかれる。新宿二丁目にあったことは、さまざまなメディアで紹介されてきたが、現在、その場所がどうなっているのかを伝えているものは知る限りなかった。
だから、私はまずはかつての「CAMP」があった場所を実際に訪ねてみることにした。以前に「プリズム」の章を書くにあたっても同じことをしたのだが、ギャラリーに関して調べるなかで、まずはその場所を訪ねてみることがとても重要であると考えるからだ。
何故なら、ギャラリーは場所そのものだからだ。場所に縛られているともいえる。大袈裟な言い方をすれば、それはギャラリーの宿命である。場所から逃れることができない。不動産という言葉にも重なる。写真集などのメディアと大きく違う点であり、最大の特徴である。撮影者はギャラリーで展示をし、そして鑑賞者するものはわざわざ足を運ぶ。そのいわば肉体的、体験的な運動、行為によってのみ唯一成立しえるからだ。さらに写真展は終わってしまえば、特別な場合を除けば二度と見ることはできない。不動の場所の夢幻である。
最寄りの駅からそのギャラリーへの道筋すら、すでにギャラリーの存在に深く関わり、その一部として見る側に影響すら与える場合があると考える。仮に銀座の地下鉄の出入り口から大通りへ出てギャラリーへ向かうのと、新宿御苑の地下鉄の出入り口から路地裏をすり抜けてギャラリーへ向かうのでは、明らかに人に与える影響は違う。その先に、同じ一枚の写真が展示されていたとしても、大きく印象を変えることは明らかだろう。
さらに「CAMP」に限らず多くの自主ギャラリーの場合、そもそも何故この場所に開設したのか、というギャラリーを設立した者たちの意思をそこに感じ取ることができるからだ。立地、家賃、借貸の契約条件などが複雑に絡んでいるだろう。ときには妥協の末の決定ということもあるかもしれない。
そんなことを考えながら、ギャラリーに向かう時間と道筋が私は単純に好きだ。楽しみにしている展示だとより気持ちは高まる。頼りなげな1枚のDMだけを手にして、想像を膨らませてくれる至福の時ともいえる。
そんなふうに考えながらギャラリーに向かう者がそう多くないことも理解している。そう考えてしまうのは、かつて自分でギャラリーを運営していたからだろう。「Days Photo Gallery」 という名のギャラリーを四谷三丁目で営んでいた。その場所にたどり着くまで、数ヶ月に渡ってギャラリーにすべく物件を探して、都内のさまざまなところへ足を運んだ。不動産屋に飛び込みで入っては「このあたりにギャラリーができそうな物件はないでしょうか? 」と尋ねることを繰り返した。一坪あたりの賃料がいくらか、それまで考えたこともなかったことをこの頃は毎日考えていた。
立地、広さ、家賃のバランスを考えると、次第に恵比寿、渋谷、青山方向から新宿方向に流れてきた感覚だ。そして行き着いたのが四谷三丁目だったことになる。交通の便がいい割にほかよりかなり家賃が安かった。不動産屋さんに連れられて歩いていると、営業の男が「このあたりのビルは空き部屋ばっかりでして」と言いながら、大通りの古いビルを指さした。2階から上の階は確かにテナントがまったく入っていないようで、窓の向こうがが黒々としていた。意外だった。違う目的で歩いていたらまったく気がつかなかっただろう。空部屋が多い地域は、貸す方も審査が自然と緩くなる。そもそも私のような、フリーで定期収入もない個人がギャラリーをやりたいといって貸してくれるオーナーはなかなかいないものなのだが、空き室を多く抱えているビルのオーナーだと当然ながら、そのあたりが甘くなる。
私もそんな危うい関係のなかで部屋を借りることができた。家賃は20万円。いま考えると明らかに無理をしていた。高すぎた。つまり広すぎた。ちなみに私がそのオーナーから許しを得たのは、最後は同じ「長野県人」だったという理由による。冗談みたいだが、そんな県人会的な要素によって許された。
「長くこのビルを人に貸しているけど、長野県人が来たのは初めてだ」
かなりのお年のオーナーは言った。通されたご自宅の応接間には額に入った上高地の写真が飾られていた。ちなみにビルの名前は「みすずビル」といって、長野県に深く関係している名前だ。「みすず」とは信濃の国をあらわす枕言葉で、県内ではよく聞くし、それをつけた会社や実際の地名もある。なおそのビルは現在、取り壊されてすでにない。
話がかなり横道にそれた気がするのが、そんな経験もありギャラリーの所在地は実に重要だと私は考えている。だから私は「プリズム」のときと同様、今回もまたかつての「CAMP」を訪ねてみたのだ。
(後編へ▶︎)
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