自主ギャラリーの時代

第18回 PLACE M④

2024/02/29
小林紀晴

「当然、みんなに反対されたよ、家賃3倍になることをね。ほんとに僕ら、できるのかって。最初はいいけど、だんだん苦しくなるのではという意見もあった」


それでも、やっていける確信が瀬戸にはあった。つまり明確な計画があった。

 

と前回、ここまで書いた。
 
その明確な計画とは具体的には「夜の写真学校」のことをさす。それは瀬戸が主宰するワークショップの名前である。


そもそも移転を考えていたのは、それまでの四谷4丁目のギャラリーが手狭になったからだった。だから広い場所に移転することを考えた。ただ、当然ながら、それにはより高い家賃がかかる。その家賃をまかなう手段として大きな存在がワークショップ「夜の写真学校」だった(ギャラリーを閉廊した夜に行うから、その名がついたらしい)。さらにレンタル暗室という発想がそれに続く。
 
「夜の写真学校」はすでに四谷4丁目で始めていた。10人が定員だったが、それがあるときから盛況となりあっという間に定員が埋まるようになった。そこで瀬戸は、広いところへ移ったら定員を15人、20人と増やせるかもしれないと考えた。


「確かに冒険。メンバーの森山(大道)さん、中居(裕恭)さん、そしてもうひとりの4人で相談した。僕が言い出しっぺだから、その構想を滔々と説明した。それまでは1人2万円(ギャラリー維持費)ずつ貰っていたけど、これからは皆さんはゼロにします、僕もお金を払わないと話した。収益だけで家賃を払っていける計画を説明したの。当然ながら、最初はいいかもしれないけど、だんだん苦しくなるぞとか、そんな意見も出た。最終的な決断は森山さんの言葉だった」
 
それはどんなものだったのでしょうか?
 
「一番、いま、具体的に考えているのは瀬戸君だから、これに乗ろう、と言ってくれた。もし食えなくて、潰れるようなことがあったら、俺たちの負けだから。写真界、写真、社会に対して、負けだから、負けちゃいけないよ、やろうよ、とも言ってくれた。さらに森山さんは、もしお金が足りないなら、俺もワークショップ、例えば週1回、1人5000円ずつ貰ってアドバイスする森山大道講義みたいなこともやるよ、とも言うわけ。そこまでお願いするつもりはなかったんだけど」

 


「夜の写真学校」生徒募集チラシ


もはや、自主ギャラリーではなくギャラリー経営ということですね?
 
「うん、模型をつくって、説明した。ここをギャラリーにして、ここをレンタルの暗室にして、カラーとモノクロのちょっと広めの暗室。それで収益を上げる」
 
以前からギャラリーにレンタル暗室が併設という発想が斬新だと思っていた。レンタル暗室そのものがそれまで日本にあまり馴染みがなかったということもある。
 
「ニューヨークに行ったときに、向こうで知った。それを見た時、あ!東京もこうしたほうがいいと思った。みんな、お座敷暗室でやっているじゃん。でもニューヨークはそこ(レンタル暗室)に行って、一時間いくらで払って、スパッと帰るという」
 
私もニューヨーク滞在中(2000~2002)に、何度もレンタル暗室は利用したことがある。当時は確か一時間8ドルから10ドルくらいだった記憶がある。私はネガカラーフィルムからプリントすることが主だったが、こんなカルチャーがあるのかと驚いた。コダックの黄色い印画紙の箱が、あたかも飲み屋の「ボトルキープ」の酒瓶のように、名前が箱の側面に書かれて、棚にずらりと並んでいた。その頃、日本ではラッキー社製の自動現像機を個人で買って、それによってプリントするというのが主流だった。確かに瀬戸の言葉を借りれば、日本では各自が「お座敷暗室」だったといえる。


各メンバーがギャラリー維持費を出さないシステムを考えた時、目指していたものはなんですか? 急にそんなことを瀬戸に聞いてみたくなった。いってみればこれは自主ギャラリーの歴史を考えるうえで特筆すべきことだ。


「写真自体が、ちゃんと社会性を持とうよ、ということ。そこまで(メンバーには)言わなかったけど、僕の受け止めがそうだった」


私は何かが腑に落ちる感覚があった。新宿御苑前に移転したときから、正確には「自主」ギャラリーではなくなった、といえるかもしれない。


同じインタビューのなかで、瀬戸は「カルチャー=収入だから」という発言もしている。収入を得て、それでギャラリーを運営、維持できること、それは明らにビジネスの領域である。なにより需要と供給が成立していることになる。つまりそれが、瀬戸のいうところの社会性ということだろう。それを確立したのだ。
 
最後に、瀬戸に今後の「写真の発表の場」について、あらためて訊ねてみた。そもそも瀬戸が「PLACE M」を1987年12月に始めた同時は「発表の場がないので自分で媒体をつくるしかなかった。自分の箱があれば、モチベーションになる」という思いからだが、いまでも変わらない部分、あるいは年齢、時代の変化とともに、変わってきたものもありますか?と。
 
「基本は撮った写真、どうするの? という話。いま、ますます発表の場所がなくなってきている。これまでは社会的にカメラメーカーがやってきた。僕らみたいなのはその下のほうでやってきた。その盛り上がりは確かにあったと思う。それがコロナ禍の状況(銀座ニコンサロンの閉廊、カメラ雑誌の度重なる休刊など)、さらに、デジタル化とかの大きな流れの中で、発表の場が減ってきている。だからこれからは、むしろこういう場所がもっと大事になると思うね」
 
確かにメディアの減少によって、逆に注目度が増す可能性は高い。


ただ、すでに記した通り、「PLACE M」はいわゆる自主ギャラリーから違うステージに入ったと考えていいのではないか。
 
「そのことはすごく意識している。例えば写真が「Mole」なら「Mole」、「蒼穹舎」なら「蒼穹舎」、「photographers' gallery」なら「photographers' gallery」っぽいよねって、色みたいなものがあるじゃない、「PLACE M」はそれを、なるべくなくしたい」


そうなんですか?


「うん。だからいろんなことをやっているわけね」
 
ちなみに映画祭も、その一つでしょうか?


「そう。映画祭は2回目やった。大変でもあったけど、今、カメラで映像も撮れるわけだから、写真と映像の境目、もうないんじゃないかと思っている。写真家も動画を撮っているし、仕事にしているのが普通。作家たちにも聞いてみたら、写真と同じぐらい撮っている。

 

「Place M Film Festival 2019」チラシ


でも写真に比べて映像はより発表の場がない。聞いたんですよ、映像の若い作家も含めて、発表の場って、あるんです?かって。そしたら、ないという答え。


それは昔の僕らと一緒。だったら、つくればいいじゃんって、言ったの。だけど、難しい。誰が上映するかとか、誰が見に来るのとか、もう最初のスタートから。ただ、そういう文化をつくれば、別にイメージフォーラムでやらなくたっていいじゃん。

 

「Place M Film Festival 2021」チラシ

 

ただ、やっぱり彼らも同じく貧乏だから難しい。でも、僕らはそれを乗り越えてきた。だったら、その火付け役に「PLACE M」の夜を使ったらどうですか、30人ぐらい入るからと言ったら、ぜひ使いたいという話になった。学生さんでもいいですよ、上映会して、トークショー、それぞれに場所、提供しますよというかたち。だからスクリーン、スピーカーも全部、一応、整えたんですよ。昼(写真)と夜(映像)で、全然違っていても、そこに接点があるかもしれないし」

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