top コラム自主ギャラリーの時代第14回 「プレ工房」冊子(前編)

自主ギャラリーの時代

第14回 「プレ工房」冊子(前編)

2023/09/30
小林紀晴

前回、ギャラリーFROGが毎月出していた出版物について触れた。そのなかで、私がかつて東京工芸大学を卒業した同じ世代の仲間と「プレ工房」なる写真の集団を作って、創作活動をしていたことについて書いた。「プレ工房」がFROGでグループ展をしたことなどに関しても触れた。1989年から1990年あたりのことだ。時代的にはバブル真っ盛りということになる。記憶はかなり曖昧だとも書いた。


さらに「プレ工房」では何冊かの冊子を発行し、編集長的な役割を私がやっていたことも記したが、残念ながらその冊子は一冊も手元になく、果たして合計何冊発行していたのか、どんなかたちのものだったのか、タイトルがどんなものであったのかも記憶が曖昧で多くがわからなくなっていた。
 
まったく想像していなかったのだが、前回の原稿を書いたあとにそれを手にすることができた。メンバーの一人だった鉄道写真家の米屋こうじ(東京工芸大学で私のひとつ下の後輩)と、最近コロナ禍を経て約4年ぶりに会ってお酒を飲む機会があった。日時などを決めるメールのやりとりのなかで、「あるものを持って行きます」と書かれていた。何だろうかと思ったが、会うまでは聞かないでおいた。


当日、彼が持ってきたのは「プレ工房」が発行していたあの冊子だった。驚いた。それも全巻そろっているという。実際、手にしてみると、もしかしたら夢だったのかもしれないと感じていた事象が、そうではなく現実のことだったのだ。そんな気持ちになった。


聞けば、このweb連載を読み、「プレ工房」のことが書かれていたので、持って来たのだという。それにしても物持ちがいい。


30年以上の時を経て、手にした冊子はかなり綺麗な状態だった。黄ばみもヨレもなく、まるで数年前に作られたもののようだった。


「しばらく貸してもらっていいかな?」


訊ねると、


「どうぞ、あげますよ。僕がもっているより小林さんがもっていた方がいいですから」


その好意によって、いま手元に4冊がある。

 


『Antic Commercial Photography』Vol.1 No.1(1989年7月23日発行・プレ工房)


タイトルは『Antic Commercial Photography』(Vol.1 No1)。発行は1989.7.23と記されている。A4サイズだったと思い込んでいたのだがB5サイズだった。ページ数は表紙、裏表紙を含めて28P。かなりのボリュームだ。B4サイズの紙を二つ折りにして、端をパンチで2つ穴をあけて金属の金具で綴じてある。黒い紐だと思い込んでいたが、違った。

 

最初は米屋浩二(こうじ)と私の対談で、写真家・小林のりお氏の写真集「ランドスケープ」について語っている。当時、二人ともこの写真集にかなり影響を受けて、よく話題に上がった。一緒に多摩丘陵に撮影に行ったこともあった。ほかにもメンバーが寄稿していて、作品(写真)だけの者もいれば、作品と文章の者もいる。なかには原稿用紙に書いている者もいる。誰もが20代半ば、前半だったはずだ。真剣、純粋に写真のことを考えている。

 


 
すべて手書き。このことが新鮮だった。考えてみれば、パソコン以前のワープロさえ誰も持っていなかった。それは世間一般を含めてのことだ。当時、手書きは当たり前だった。誰もがこんなふうに文字を直接紙に書いていたのだと感慨すら憶える。


肝心な作品も当然ながらただのコピーである。記憶ではコンビニのコピー機のはずだが、もしかしたら勤めていた新聞社ではコピー機を自由に使えたので、それを使った可能性もある。意外と写真の調子がきれいに(とはいえ今のようなスキャナーには遠く及ばないが)にでている。

 


表紙をめくると「創刊しました」と題された挨拶文があった。私が書いたものだ。
 

プレ工房発行Antic Commercial Photographyというのをつくりました。その前にプレ工房というのが5名でつくられました。そしてこれはその機関紙という事になります。コマーシャルにジュウジしている人が数人居てそれなのにコマーシャル写真はやりたくない、好きじゃないけどしかたがないと思っている人々が影でコソコソ何かやろうと思ってできたのがこのプレ工房のアンチという言葉を生んでしまったのではないでしょうか。僕はそこに不マジメさを感じてたいへんうれしい。

 
なんてことが書かれている。確かに数名が広告系のアシスタンをしていた。だからといって、わざわざ冊子のタイトルにアンチなんてつけなくてもと思うのだが、それだけ大きなフラストレーションが溜まっていたということだろうか。当時、私は新聞社の社カメだったので、すくなくとも広告系ではなかったが、仕事で撮る写真には疑問を少なからず抱いていたので、心境はかなり重なり、やはりアンチという気分だったはずだ。文章の最後には「これからセブンイレブンに行くので」とある。少なくとも創刊号に関しては、やはりコンビニでコピーをしたのだろう。
 
第2号は驚いたことに突然、タイトルが変わっている。『Artistic Communication Photography』と改題されている。発行日は1989.10.21 。創刊号から3ヶ月後である。アンチではなくアーティステックである。さらにコマーシャルではなく、コミュニケーションである。頭文字だけとればどちらも『ACP』となるが、この変わり身の速さはなんだろうか。記憶がないので、他人事みたいに思えるからだろうか、もはや笑い出したくもなるのだが、単語のスペルはちょっと似ているが、そんな理由ではないだろう。何かを改心したということだろうか。創刊号よりボリュームが増えて36Pもある。

 

『Artistic Communication Photography』Vol.1 No.2(1989年10月21日発行・プレ工房)


ここで私は「いざ、インドへ(上)〜まけた〜」という原稿を書いている。これは次号にも続く。この原稿を書いたことだけはよく憶えている。この年の夏に会社の夏休みをつかって1週間ほどインドへ撮影旅行に行った。初海外だった。

 


このときの体験は強烈だ。それゆえに体験したことを吐き出したい気持ちが膨らんで、一気に書いた記憶がある。


写真入りの扉以外に原稿のみのページが18P。大学ノートらしきものにびっしり小さな文字が詰まっている。改めて読んでみるとかなり退屈だ。ほとんど日記みたいな感じで、起きたことを起きた順に書いてあるだけだ。


初海外、それもインド、でも効率よくいろんなところを巡りたいという思いから私はこのときツアーに参加した。そのツアーで一緒になった日本人のことがやたらと書かれている。一人部屋を予約すると追加料金が発生するので、相部屋を申し込んだ。結局、同じく一人で参加していた大学生と相部屋となったのだが、その大学生につい多く触れている。


デリーに着いた翌朝、ホテルの前でリキシャの運転手に乗らなかいと言われて、そのまま乗ってどこかに行ってしまったことなど。ほかは物売りに騙されたことや、そのやりとりなんてものがやたらと書かれているが、正直退屈で、途中で読むのをやめてしまった。


それにしても文章の量だけは圧倒的で、この号はほかのメンバーが寄稿したページは38pのうち7pのみ。後書きなども含めてほかは私が書いていることになる。


このことに対して、ほかのメンバーはどん気持ちだったのだろうか。いまさらながら気になってくる。実働のコピー、綴じる作業は私が一人でやっていたので、不満というのはなかったかもしれないが、ちょっと心配だ。
 

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