本連載は今回で最終回となる。
この連載のスタートラインはカメラ好きの間では顧みられることの少ないどころか半ば無視されているAF一眼レフの時代とはなんだったのか、AF一眼レフの時代には何が起き、そして何を残したのか? という問いからだった。これまで本連載では各機種の操作系の変化などを軸に、こうした出来事について解説を加えてきた。
操作系の面からAF一眼レフの時代を語る上では、いくつかトピックになる機種が存在した。これまでの連載でも触れてきたことであるが、今一度全体の流れを振り返るという意味で改めて代表的な機種とその影響を振り返ってみよう。
さて、AF一眼レフを語る上で、もちろんミノルタ α-7000(1985年)を外すことはできない。操作系の面から言っても、やはりこのカメラがAF一眼レフや現在に繋がるカメラの操作系の祖であったと言ってもいいだろう。天面からダイヤルの軸をなくしたフラットな軍艦部や絞りリングを廃してパラメーターの仮想化を成し遂げたことなどはまさに新時代を感じさせるものであった。同時代の流行がこうしたフラットかつ直線基調なデザインであり、この面から言えばキヤノン T70(1984年)といった先行例も存在したものの、AF一眼レフカメラという新しいカテゴリの代表機種でもあったことから、こうしたデザインと操作系のルーツはα-7000にあると位置付けていいだろう。
[ミノルタ α-7000(1985年)]
このα-7000は当連載で実施した開発者インタビュー(https://photoandculture-tokyo.com/contents.php?i=4170)にもあった通り、当初はその操作系の斬新さから市場からNOを突きつけられる可能性も危惧されていた。このことから当時のラインナップは斬新さのα-7000、トラディショナルなα-9000という棲み分けになったということだが、結果から言えば市場はα-7000の操作系を受け入れた。ある意味では、AF一眼レフという「これまでとは違うカメラ」であったからこそ、ユーザーも頭を切り替えることが出来たのではないかと思われる。またこれが一般化したことによって、これ以降AF一眼レフに参入するメーカーは初期モデルに関しては概ねα-7000ライクなデザインと操作系を採用することになった。
ただし、主要なカメラメーカーの中ではニコンだけが初期モデルにシャッタースピードダイヤル&絞りリングを残し続けるなど独自路線を歩んでおり、またマウントも”不変”のFマウントを踏襲した。このことからAF一眼レフによってスパッと時代が切り替わるというよりは、MF一眼レフから連続性を持ってAF一眼レフへとつなげようとした意図を感じるところである。特にこの流れの中で登場したニコン F4(1988年)は、MF時代のようにボディ側には液晶表示を持たずダイヤルとレバーの操作系を堅持した上でAF化に伴う多機能にも対応したため、ダイヤルとレバーが所狭しと配置されている。こうした意味でも、やはりMF一眼レフからの連続性を意識していたと考えられるし実際にユーザーもそれを求めたのだろう。AF一眼レフの歴史を紐解く上では、こうしたメーカーごとの考え方の違いなども興味深いポイントである。
[ニコン F4(1988年)]
次に訪れる操作系のトピックとしては、やはりキヤノン EOSシリーズの登場が挙げられるだろう。中でも操作部材としての電子ダイヤル(1987年 EOS650)と、各機能をゾーン分けした垂直軸式のモードダイヤル(本格導入は1990年 EOS10QD)はその後のキヤノンはもちろん、他メーカーにも強い影響を及ぼした。
[キヤノン EOS650(1987年)]
シャッターダイヤルや絞りリングなどを廃したα-7000ライクな操作系のカメラは、必然的にそのパラメーターを指定するための操作部材を必要とした。当初のAF一眼レフではこのパラメーター選択部材としてα-7000が採用したボタンのほか、原点復帰式レバーやスライドスイッチ、ジョグなどが各社の考えのもと採用されていた。しかしこうした操作部材は少し数値を変更する分にはいいのだが、一気に数値を変えようとすると何度も押す必要があるなどまどろっこしい。このため、無限回転する電子ダイヤルはその有効性が即座に認められ、各社に採用が広がっていった。そして現在のデジタルカメラ時代にあっても操作系の根幹を成す最重要操作部材として君臨し続けている。
また、垂直軸式のモードダイヤルは機能の一覧性が高く、キヤノンにおいては電源スイッチも兼ねた上で簡単操作ゾーンと発展的操作ゾーンを区分けできるという利点があるため、これもまた各社に各社に波及することとなった。ただしキヤノンがこの内容(モードダイヤルのゾーン分け)で特許を取得していたため、これが全メーカーに波及するのはフィルム時代末期やデジタル初期を待つこととなった。
そしてこの二つの操作系を共に備えたEOS 1000QD(1990年)やEOS Kiss(1993年)は高機能廉価機というカテゴリを作り出し、プロやハイアマチュアを除いたほとんどのユーザーが満足出来るカメラとして大ヒットとなった。そしてこのモードダイヤル+シングル電子ダイヤル+液晶というKissの操作系は、これ以降も初級者向けカメラにおける操作系のスタンダードとして確立されたのである。
[EOS 1000QD(1990年)]
こうしてEOS Kissやそれに対抗した高機能廉価機がその競争の激しさもあり年々コストパフォーマンスを上昇させていき(全体の大多数を占める)初~中級のユーザーを満足させてしまったことや、AF一眼レフにおける目玉的機能向上に行き詰まりが見え始めたこともあり、90年代半ばになると、中級以上・10万円クラスのカメラはこれまでのように最新機能を詰め込むだけでは成立しなくなり、写真趣味者に向けたコンセプトの変更(本稿では「カメラ好きの為のカメラ」と呼んでいる)を余儀なくされた。
そしてこの時代を代表するカメラが、ペンタックスのMZ-5(1995年)である。このカメラの意義は、機能競争・スペック競争からの決別とクラシック操作系への回帰である……と筆者は考えている。MZ-5登場以前の10万円クラスのカメラは、α-7000の登場以来最新のスペックを全部載せで盛り込むことが慣例になっていた。このクラスは全部入りなのでやりたいことが誰でも出来るし、これを買っておけば間違いないといった位置付けだったのである。
しかしこうした手法は高機能廉価機の出現で吹き飛んでしまった。ユーザーは5万円クラスでなんでも出来る高機能廉価機に流れ、大多数がAF一眼レフカメラに10万円を出すという時代は終わりを告げてしまったのだ。だからこその「カメラ好きの為のカメラ化」なのだが、ここでペンタックスは小型軽量に舵を切り、それに伴い前機種に相当するZ系よりも一部のスペックは落ちることになった。つまり最新最高のカメラであることから降りたのである。そしてそれでもこのカメラはヒットした。つまるところ、中級以上のユーザーも自分にとって必要十分な機能があればそれで良いという意識に移行していたのだ。そして当時のAF一眼レフカメラは、既にその水準に達していたと言える。
中級クラスでも小型軽量を売りにしたMZ-5がヒットしたことにより、このクラスの高機能化に伴うサイズや重量アップにも歯止めがかかったと言えるだろう。またダイヤルやレバーの操作系が再度見直されることになったし、カメラには趣味の道具としての質感が求められるようになり、金属部材も見直されるようになった。
これらのことからAF一眼レフはMZ-5の登場によってひとつの転換点を迎えたと筆者は考えている。そしてその転換というのは、AF一眼レフがこれまでの進化によって否定してきた、トラディショナルな金属製MFカメラを思わせる方向性でもあった。
[ペンタックス MZ-5のバージョンアップ版 MZ-3(1997年)]
続く1996年、ニコンはプロ向けのフラッグシップモデルとしてF5を発表する。前機種であるF4とはガラッと変わってダブル電子ダイヤル+液晶の操作系に変わったこのカメラは近代ニコン機の操作系の基礎となったカメラであると言えるだろう。前後ダブル電子ダイヤルによる絞りリングからの決別は大きかったが、操作系の歴史の面では十字キーの搭載が非常に大きいと言える。この十字キーはAFポイント選択用の操作部材となっていた。この頃になると多点AFは当たり前のものとなり、しかもマトリックス的に配置されるようになったため、AFポイントの選択は重要な課題の一つであった。これを直接選択させる操作部材として十字キーが導入されたのである。
[ニコン F5(1996年)]
また、ニコンはこの少し前(1994年)にF50Dで液晶表示のドットマトリクス化を行っている。電卓のように予め決まった文字しか表示できないセグメント液晶では多機能化に伴って多様化する表示を分かり易く表示出来ないという課題があったのだが、F50Dのドットマトリクス液晶はそれを解決する手段の一つだった。もっとも、この試み自体は当時の貧弱な解像度もあって使いやすさには繋がっておらず、決して成功したとは言えなかった。しかしこの二つが組み合わさることで操作系はさらに新時代を迎えることとなるのである。
それが2000年のミノルタ α-7である。このカメラは背面に備えられた大型ドットマトリクス液晶によってアイコンだけでなく文字で項目やパラメーター、設定項目を表示することが可能となり、それによって大きくカメラの操作系は変化した。またこの大画面に表示される多様な機能をスムーズに操作させる手段として、十字キーはAF選択だけではない重要な操作部材へと変化することになった。そしてこれもまた、そのままデジタルへと引き継がれていくことになる。
しかし、このような背面に配置した大画面ドットマトリクス液晶+十字キーの操作系を実現したAF一眼レフカメラというのは、実はこのα-7と2004年のニコン F6のみである(セグメント液晶+十字キーであればEOS Kiss7や*istなども該当する)。というのも、この頃になると比較的ハイエンドを担当する一眼レフであっても、もはやデジタルカメラの影響は無視できないものになっており、各社の開発の軸足もそちらに移っていったからである。もはやAF一眼レフにはこれ以上の進化を見せるだけの将来性が残っていなかったとも言える。
そしてデジタル化の波は想定した以上のペースで進み、AF一眼レフの歴史はこれらの機種や最後に発売された高機能廉価機をもって終了してしまった。しかし、この後に起きる初級者向けデジタル一眼レフのいわゆる10万円戦争(キットレンズ込みで10万円というのが当時の一つの目安であった)でAF一眼レフ時代の名跡そのままに新たな戦いが繰り広げられたのは皆様ご存じの通りである。
さて、本連載がこれまで追い求めてきた「AF一眼レフの時代」というのは、簡単に言えばα-7000の発売された1985年からAF一眼レフの最終機であるF6が発売された2004年までのおよそ20年弱ということになる。そしてこの時代は日本製カメラ独走の時代でもあった。この期間において35mm判AF一眼レフを作ってのけたのは日本が唯一であり、もはや海外メーカーにこれらのカメラと正面からぶつかるモデルは存在していなかった。つまり、筆者としてはこれらの年代もまた日本のカメラにおける黄金期と言っても良いのではないかと考えているのである。
とはいえ、本連載の初回でも述べたとおり、この時代は軽んじられている(少なくとも筆者にはそう感じる)。相変わらずカメラ好きの興味は最新デジタルカメラやクラシックカメラに向けられており、そうかと思えばAF一眼レフカメラ再評価の時代が来る前にその頭を飛び越えて初期のデジタル一眼レフカメラやコンパクトデジタルカメラ、そして初期のカメラ付きスマートフォンがノスタルジーの対象として消費され始める始末である。このままだともしかしたらAF一眼レフやその意義が再評価される時代は来ないのかもしれない。この現状は本連載を開始してから今日まで変わることはなかった。
そんなわけで、本連載はそこに一石を投じるつもりで続けてきたのだが、この大海原のように広いカメラ界の片隅から投げた石でさざ波を立てることくらいは出来ただろうか。もしこのさざ波が誰かに届いて、AF一眼レフカメラも面白いなと思って頂けたのであれば幸いである。
最後に、私事ではあるが一つエピソードを書き添えて本連載の終わりに代えさせて頂きたい。
筆者がカメラに本格的に触り始めたのは大学生の頃だったのだが、それまではカメラや写真への興味はまったく無かった。ただ、隣町に住む祖父が古くから写真を趣味にしていたということだけは知っていた。祖父は戦争で右腕をなくしたいわゆる傷痍軍人だったのだが、趣味は旅行と写真であり、祖母がサポートして各地の写真を撮っては、コンテスト等に応募していたようである。筆者は父の実家で(当時はそれと知らなかったが)防湿庫を勝手に開けて怒られたことやカメラ雑誌がたくさん置いてあったこと、家や経営する飲食店に祖父自慢の写真が飾られていたことをなんとなく覚えている。そして筆者の親の結婚式の写真には、三脚に載せたハッセルブラッドのシャッターを切る祖父の写真も残されている。ただし、筆者が写真やカメラに目覚める前に祖父は亡くなったので、どんな写真を撮っていたのか等の詳細までは不明である。
さて、筆者は大学生の頃に写真を始めたと言ったが、懐に余裕のない学生の身でカメラを手に入れるべく手っ取り早くアテにしていたのが実はこの祖父の形見であった。既に祖父が亡くなってから数年経っていたが、たくさん持っていた(らしい)のだから何かしら価値のあるカメラが残ってるのではないかと皮算用していたのである。
……しかしこの目論見はあっけなく崩れることになった。というのも、祖父が亡くなった時に親戚には誰もカメラが分かる人間がいなかったため、そのコレクションは中古カメラ屋に全部売ってしまったそうなのだ。先の通りハッセルなど高価なカメラがあったことは間違いないのだが、それらの入手はアテが外れてしまった。
ところが、そんな中で押し入れの奥深くに眠っていたのが、ミノルタ α-7700iと数本のレンズとアクセサリー類であった。今になって思えば、これらのカメラは中古カメラ屋でも値段が付かなかったのだろう。結局それらだけが残されていたので、筆者はこのカメラからカメラ趣味を始めることになった。
その祖父の遺したα-7700iには見慣れないアクセサリーが付属していた。ストロボグリップのような増設グリップに接着剤でリモートレリーズが貼り付けられていたのである。筆者は当初その意図が分からず取り外して使っていたのだが、ある程度写真やカメラに詳しくなった時にふと思い出して、その意図に気付いた。
祖父は先に述べたとおり、片腕を失っていた。故に筆者の家に残っている写真でも祖父は三脚にカメラを据え付けている(おそらく三脚を立てるのを手伝っていたのは祖母だろう)。通常のMF一眼レフであればカメラを支えてシャッターを切る右手とピントを合わせる左手が必要である。しかし、AF一眼レフカメラであれば筆者が見たような簡単なアクセサリーを作るだけで左手だけで撮影することが出来る。つまり、AF一眼レフカメラの誕生により片腕の祖父でも自分の力だけで凝った撮影が出来るようになったのだ。
ここまで長々と外観だの機能だのを中心にAF一眼レフの話をしてきたが、そもそも一眼レフがAFになるという原初の部分で救われた人もきっと多かったことだろう。筆者の祖父も、きっとそんな人間の一人だったのではないだろうか。
もっとも、α-7700iではなくハッセルとかが残ってたらおそらく筆者も今頃はハッセル使いになってたわけで、そうであればおそらく今頃こんなことはしていなかったのではと思うし、そういう意味ではあのカメラこそが筆者が道を踏み外した元凶である。また先の通り筆者のカメラ趣味というのは直接祖父を引き継いだとは言えない面がある。
ただ、そうであってもAF一眼レフに救われた者の子孫として、こうしてAF一眼レフの歴史を書き残しているということに数奇な縁を感じつつ、こうした活動にも多少なりとも意義があるのではないかと考える次第である。(おわり)
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