前回までに述べた通り、1987年のキヤノンEOSシステムの登場によって主要各社のAF一眼レフが一通り出揃った。もちろんその力の入れ具合に多少の差はあったが、一方で初級ユーザー向けからプロ向けまで全てのクラスがAF一眼レフ化された以上一眼レフカメラの主戦場がAF機に移ったことはもはや否定しようのない事実であった。
さて、AF一眼レフ誕生の当初の目的は、当時コンパクトカメラに流れていたユーザーに対し、ピント合わせを自動化し簡便化することで再度ユーザーを一眼レフの方に引き戻すことにあったといえる。この目的については各メーカーのAF一眼レフが実用上十分な性能を持っていたことから市場にも受け入れられ、一眼レフは再度輝きを取り戻したのである。
この、ある意味では分かりやすい目標であったAF化により一眼レフであっても「ピントが自動で合う」ことはもはや当たり前のものになった。もちろん、AFの精度・速度といったものはこの時期未だ発展途上にありそれらの進化は並行して進んでいたのだが、その一方でAF一眼レフでありさえすれば売れるという時代はもはや終わり、その次の提案が求められようとしていた。
つまり、この先AF一眼レフの進むべき道とは何なのか、各社の個性や目指すものの違い、そしてその結果としてのカメラの機能やデザインの違いというのが浮き彫りになっていくのがこれ以降の時代である。
そうした中で発売されたのが、AF一眼レフ戦線の先陣を切ったミノルタの第二世代機であるα-7700i(1988年)──そしてそこから始まるiシリーズ──であった。
α-7700i。残念ながらグリップは崩壊した為除去済。
余談だが、フィルムAF一眼レフ時代のミノルタは世代ごとにシリーズを分けており、その世代内でコンセプトがある程度統一されている為、こうしてAF一眼レフを世代別に語る際に区切りに使うのに非常に都合が良い。また、ある時期まではミノルタがAF一眼レフの進化をリードしていたというのも事実である。そういうわけで、本稿でもある時期まではミノルタ機の世代交代とAF一眼レフの世代をリンクさせて語っていくつもりである。
さて、ミノルタが考えた「ピントが自動で合う」のその先とは何だったのだろうか? もちろんα-7700iはα-7000の後継機だけあって正常進化と呼べる点も多い。マイコンの高速化とAFセンサーやモーターの一新によりAF速度は向上し低照度にも強くなった。その上でAFポイントは多点化され、待望の動体予測機能が付いた。多分割測光の搭載により露出精度も向上し、ストロボについても更なる自動化が成された。しかし、これらはある意味では予想の範囲内であり、既存のAF一眼レフの延長線上にある進歩である。あのα-7000の後継機なだけに、新しい提案も求められていた。
では、iシリーズが提案した次世代のAF機の姿とはなんだったのか。当時の資料によれば、α-7700iではこれまでに掲げられていた「多機能にしてシンプル」というカメラ作りのコンセプトに加え「個性化への対応」という新たなコンセプトが掲げられている。
この個性化という点については少し解説が必要だろう。先の通りα-7700iが発売された1988年にもなるとAF一眼レフはだいぶ普及していたわけだが、コンパクトカメラとの競合を考えると更なる高機能化を進める必要があった。一般に一眼レフカメラはコンパクトカメラの上位の存在として、より高度な撮影が可能という点に魅力があったからである。
さて、カメラの自動化というものは基本的には失敗写真を無くす方向性で進化が続いてきた。自動露出により露出制御面での不安がなくなったり、自動巻き上げ&巻き戻しによって給装に起因するトラブルが解決されたりといった具合である。そういった意味では一眼レフのAF化もまた、ピンボケという失敗を無くした点にその主眼があった。つまり、各種の自動化により誰でも及第点の写真が撮れるようになったのである。
そして「失敗してない写真」の次に目指すべきものとされたのが、さらに一歩踏み込んだプロのような写真であり、ユーザーにとってより良い写真であった。ただし、初級者がこれを実現する為にはカメラからのサポートは欠かせず、これまで以上のカメラの高性能化、高機能化は必須のものであった。
しかし、ただ機能が増えるだけではユーザーはその多機能化にとまどうだけではなく、複雑化によってかえって遠ざけてしまうことも考えられる。また、ユーザーの要求やレベルは様々であり、求められる機能は個々のユーザーによっても異なる。そもそもこの時代のAF一眼レフ中級機は最も自動化が進んだカメラであり、そのターゲット層は初級者から中上級まで幅広い。このような課題に対する回答が、ユーザーの様々な要求や理想に対応する「個性化」なのである。
そしてこの個性化の考えをカメラに落とし込んだのがα-7700iで初登場となったカードシステムであった。インテリジェントカードと名付けられたそれは、カードを差し替えることでカードに内蔵されたソフトウェアによってカメラが機能アップするという、これまでにないシステムであった。
インテリジェントカードとサイズ比較用SDカード。
もちろん、カメラ以外を見渡してみればパソコンや電子手帳、そしてカセット式のゲーム機など、80年代以降ソフトウェアによる機能拡張は世の中に存在したし、カメラにおいても裏蓋交換などで機能アップを果たした先例は存在した。ただ、カメラにおける機能追加をあたかもゲーム機のソフトを差し替えるような形でアピールしたという点にはこれまでにない新しさがあった。
このカードを差し込むと本体側にカードに応じた機能が追加されるようになっており、発売当初は三系統十種類のカードが案内されていた。プログラムラインを特定の被写体に合わせて制御する(例えばポートレートやスポーツ等)フォトテクニックカード、カメラに機能を追加するスペックアップカード(例えばオートブラケットやハイライト・シャドー測光機能の追加)、そして自分好みの設定を記録するためのカスタムカード(例えばビープ音のオンオフやシャッター速度のステップ、フィルムのベロ残しの有無等)といった具合である。カードシステムによって機能拡張を選択的に実施することにより、各ユーザーの希望を叶えつつも複雑化を避けている。
もちろん、当時のカメラ向けマイコンの性能ではこれら全ての機能を機種内に内包するにはコストがかかり、またその多機能を選択するためのインターフェースにも無理が出てくる為、その分を外に切り分けたという意味もあると思われる。実際カメラの多機能化には価格アップと複雑化がセットであるし、そうして機能向上を果たしたとしても大抵は「必ずしもすべてのユーザーが多機能を求めているわけではない」という批判がつきまとう以上、この考えは落とし所として機能していたように思える。
メカの塊であり、ハードウェアの極地であったカメラではあるが、電子化・電動化に続いてソフトウェアの重要性が明確になったという意味ではこのα-7700iがマイルストーンと言えるかもしれない。
もっとも、現代の目で冷静に見てみるとメインで売り出されていたフォトテクニックカードのやっていたことというのは各種のプログラムモードを単体で切り出したものとも言えた。
例えばスポーツカードは手ブレしない程度の最適なシャッタースピードを撮影倍率も計算した上で適用するというものだったが、要するに(MF一眼レフ時代にも存在していた)高速寄りのプログラムと狙っているものは同じである。もちろんその算出方法自体は高度化していたのだが、結局これらの専用プログラムは、こうして切り出されたにも関わらずこの後シーンモードとして再度カメラ内に取り込まれることになる。もっとも、これは更に後の話である。
こうした機能面はもちろん、操作系の面でもα-7700iはこれまでのカメラと趣を異にしていた。というのも、カードシステムの導入によってその時々で使える機能は変化することになり、それをどのように設定・操作するかが新たな課題となったからである。
前機種であるα-7000の操作系は基本的には液晶表示+機能ボタン+パラメーターを可変させるアップダウンボタンというものであった。機能ボタンで設定呼び出し→アップダウンボタンでパラメーターを変化させるというものだ。この方式はボタンに書いてある内容が理解出来れば操作することが出来るし、操作のステップ数も少ない。この操作系は当時のデファクトスタンダードとなり、α-7000と同時代の各社のAF一眼レフにも類似のものが採用されていた。一部のメーカーに同時押しでの機能切替等があったが違いはそのくらいであり、ここから大きく外れる例外は液晶がそもそも存在しない初期のニコン機くらいである。
さて、α-7700iの操作系はこのα-7000とはだいぶ異なる。また現代のデジタル一眼を使い慣れた方々にとってもこのカメラの操作は特異なものに感じられるのではないかと思う。私事で申し訳ないが、十数年前に当時デジカメしか触ったことのなかった筆者が親戚からα-7700iを譲り受けた際、どこを触れば目的の機能が呼び出せるのか最初はサッパリわからなかった。思えば、筆者がカメラの操作系に興味を持ったのはこのカメラからかもしれない。
そんなα-7700iの操作系は左手側にあるMODEボタンとFUNCボタン、そして右手側にある三角マークのセレクトボタンが重要な操作要素となっている。MODEボタンはその名の通りモードの切り替えで、いわゆるPASMの選択用となる。セレクトボタンは液晶上に表示されている主要機能である露出補正・ドライブモード・フォーカスエリア選択・カード(カード挿入時のみ)のどれにカーソルを合わせておくかの選択、そしてFUNCボタンは現在選択されている主要機能の数値を変化させる際に押すボタンとなっている。つまり、メニューが予め階層化されており、特定の機能を呼び出す(例えばドライブモードの切替)時にはセレクトボタンで大項目の選択をした上で、FUNCボタンを押して小項目の設定をする必要がある。また、セレクトボタン隣のCARDボタンはその名の通りカードの機能を呼び出す為のものである。またPマークのプログラムリセットボタンも健在である。
α-7000で採用されていたボタン機能の操作系のメリットはその明快さにあったが、一方で機能が増えればその機能の数だけボタンを増やす必要がある。また、この操作系ではカードシステムのような可変要素のある機能追加には追従することが出来ない。一方でα-7700iのようにメニューを階層化すれば表に見えるボタンを減らしつつ高機能化を図ることが出来るし、可変要素にも対応することが出来る。カードシステムはそのカードに応じて求められる操作も変わってくるのだから、このような変化は必然であった。
ただし、操作の階層化は即応性を下げることにも繋がる。そうした点から見ると、α-7700iは中上級者が設定を縦横無尽に変えつつ自在に使いこなすカメラというよりは、初心者を含め全自動に軸足を置きつつやろうと思えば高度な撮影も出来るカメラとして考えられていたように思える。
また、α-7700iではパラメーターを操作する部材もこれまでのボタンからスライドスイッチへと変化している。さらに、α-7000の時代にはマウントの根元にあった第二のパラメーター操作ボタンも消滅してマニュアル絞りボタンへと変わり、このボタンを押しながらスライドスイッチを操作することで絞り操作が出来るようになった。これは現代で言うダブル電子ダイヤル機からシングル電子ダイヤル機への後退であり、α-7700iが中級機であることを考えると思い切った改変である。これも基本的には自動で使うカメラということなのかもしれない。
このような操作系面での大きな変化はボディデザインにも影響している。α-7000で直線基調だったボディ形状は三次元曲面を描くようになった。特に撮影者に向けて傾けられた液晶を配した大きなグリップが目立ち、反面これまでの一眼レフカメラでは主張の大きかったペンタプリズム部はコンパクトに絞られている。各ボタンはカメラを握り込んだ際に自然に手が届く位置に配され、またその形状も丸みを帯びていて、明らかに前世代機とは異なる雰囲気を持たせることに成功していた。このデザインは西ドイツ(当時)の著名デザイナーであったハンス・ムートとミノルタの協業によるものである。なお当時のカメラ業界はキヤノンがルイジ・コラーニ(T90等)、ニコンがジョルジェット・ジウジアーロ(F3以降)を起用していた頃であり、ある意味では海外デザイナーのブーム期だったとも言える。
そして、このα-7700iの影に隠れつつ重要な役目を担ったのが、α初めての3番機であるα-3700i(1988年)であった。とはいっても、シリーズのボトムを担う廉価機ということでカメラマニア層からは印象の薄い機種かもしれない。しかし、このカメラが後に与えた影響というのは無視できないものがある。それは当初から廉価機として作られたことだ。
α-3700i 非売品のクリアモデル(筆者私物)。
そもそも前世代のAF一眼レフの廉価機は概ね上位機の機能削減版であり、主要な骨格は上位機と共通であった。よって、機能が少ない割には小型で軽量というわけでもなかったのだ。これに対してα-3700iはα-7700iとは根本的に設計を分け、廉価機専用の骨格を使用したことが大きな特徴である。例えばペンタプリズムは軽量化の為にペンタミラーへと変更されているが、この部分はもちろん専用設計である。
これにより、ボディは当時の最小・最軽量となった(ボディのみ420g、α-7700iは590g)。もちろんこの小型・軽量のために諦めたものも多数あり、撮影モードは2ライン切替式のプログラムのみで、いわばレンズ交換の出来るコンパクトカメラのような仕様となっていた。もっとも、MF一眼レフ時代には廉価モデルとして絞りオート専用ボディやプログラム専用ボディが多数存在したことを思えば、一種の先祖返り的仕様だったとも言える。故にこのカメラには操作系を云々する余地もない。何せプログラム専用機だから電子ダイヤルに相当する部材すらないのである。とはいえ中身は上位機を継承しており、AF性能は旧世代の上位機をも凌駕していた。
そして実際にはここにレンズの費用がプラスされるとはいえα-7700iのボディのみ定価が73,000円に対しα-3700iは41,000円と、こちらもコンパクトカメラと見紛うようなプライスタグが付けられていた。実際専用設計が故の圧倒的小型軽量ボディとこの価格はかなりのインパクトがあったようだ。
α-3700iはこのようなポジションのため、先に述べたようなカードシステムによる拡張には対応していない。この一つ上に当たるα-5700i(1989年)ではカードシステムに対応しており、またα-3700iでは外付けだったストロボもα-5700iでは内蔵していた。しかし、この5番台というのは前世代から継続してやや半端なポジションにあるのか、現在では中古機として見かける数も明らかにα-3700iやα-7700iよりも少ない。
この他にはやや遅れてα-7700iのバージョンアップ版となるα-8700i(1990年)が投入された。α-8700iは当時のTBS宇宙プロジェクトの採用機材として宇宙へ飛び立ったこともあり、これを記念したパールホワイト外装のミールモデルも生まれている。ただし、この世代においては9番台は生まれておらず、α-8700iもシンクロターミナルや独立した露出補正ボタン等上級者向けのスペックを盛り込んだとはいえα-7700iのバリエーションモデル的存在であり、プロ向けを謳うスペックではなかった。この時期絶好調のミノルタとはいえ、結局のところプロ向けの市場に本格的に食い込むことはなかったのである。
α-8700iミール。レンズも専用のホワイト仕様がセットになっていた。
この世代共通のトピックとしてはストロボシューがオートロックシューとして独自形状化されたことも大きい。これはその名の通り自動でロックされるシューである。当時ストロボシューの物理形状は共通ながら接点は各社独自配置であり互換性がなかったことを考えると、いっそ形状も独自にしてしまうというのは頷けるのだが、やはり独自規格ということもあり、消費者からの評判は微妙なものだったようだ。このオートロックシューはこの後ソニー時代まで引き継がれていたが、そのソニーも現在では一般的な形状のシューへと戻している。
交換レンズにおいてはボディ及びレンズ光学系双方の工夫により反射望遠レンズをAFに対応させることに成功した(AFレフレックス500mm F8)。これは世界初かつ、その後に追従するメーカーも現れなかったためミノルタ(及びそれを引き継いだソニー)だけが製品化を果たしている。これ以外のレンズ面では前世代から更なる小型化を進め、特にキットレンズである35-105mm F3.5-4.5やセットで望遠側を担う70-210mm F3.5-4.5、100-300mm F4.5-5.6といったレンズにおいて大幅な小型化を果たした。こうしたレンズのラインナップはプロやハイアマの為の高画質路線というよりは、高機能化と自動化を進めつつも、あくまでも一般ユーザーの方を向いているように感じられた。
このように、ミノルタにおいてはAF一眼レフが一般化した次の時代を個性の時代と見定め、上位機においては更なる高機能化と自動化を進め、更にはローエンドには小型軽量廉価を提案することにより、AF一眼レフ市場における立場をさらに確実なものへと固めようとしていたし、その結果操作系も新たなステージへ進んだのである。
一方で、ミノルタを追う各メーカーにおいても、AF一眼レフが普通のものになってからの次の一手が模索されていた。これらについては次回以降に詳述する。
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