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エアポケットの時代 ─80〜00年代の日本製カメラたち─

第20回  AFカメラの時代にレンズに起きたこと (3)

2024/07/01
佐藤成夫

[EF50mm F1.0L USM、EF300mm F2.8L USM、EF28-80mm F2.8-4.0L USM]

 

 

ミノルタα-7000の登場以降もレンズの電子化はさらに続いていく。今回は80年代末から90年代初頭のレンズについて見ていこう。

 

1987年、キヤノンEOSシリーズの登場とともにEFマウントが登場した。このEFマウントの特徴はなんといっても完全電子マウントということで、メカニカルな連動はなくなり、マウント面には電子接点のみが配されていた。

 

[右のミノルタマウントに対して左のキヤノンEFマウントは絞りレバーやAFカプラーがない]

 

キヤノンによれば、EFレンズに繋がることとなる新マウント構想のスタートは1980年頃に始まったとのことである。そこでは将来的な一眼レフ用レンズの理想像を追求していたようで、もちろん近い将来におけるAF化も掲げられていたようだ。下記のインタビューはEOS後に実施されたものだが、その中でも先行開発の内容について触れている。

 

実は、本格的AF 一眼レフカメラ実現に向けて、一番早く要素技術に着手したのは、われわれではなかろうかと思っております。1980 年の暮れから81 年にかけて、Z タスクフォースというのを作りまして、EOSに使われているキーテクノロジーのうち、レンズ内に入れる二つのアクチュエーター、つまり電磁駆動絞り(EMD)とフォーカシングのためのレンズの繰り出しを行う円弧型モーター(AFD)、それから、AF 制御方式のSIR、この三つをスタートさせました。その時すでに、レンズ内モーター駆動と決まっていたわけです。

相澤紘 宮城孝太郎,EOSがキヤノンの” 女神” になった日,『実業の日本 1988 年3 月号』,P19-20, 実業之日本社,1988

 

こうした先行開発によってもレンズ内モーターとそれによる完全電子マウントの利点は認識されていたようだが、当時のキヤノンはFDマウントによって一大システムを築き上げており、またそのボディもプロから初心者向けまでフルラインナップを揃えていた。新マウントへの切替はこうしたシステムをすべて過去のものにしてしまうわけで、当時の一眼レフにおいてトップシェアを誇り、明らかに強者の側であったキヤノンには取りづらい戦略であったものと思われる。

 

このため、上記の通り要素技術の検討においては先行していながらも、実際にAF一眼レフとして発売されたT80(1985年)ではメカニカルな連動を残したFDマウントの仕様をベースに電子接点を配置し、AFはレンズ内モーターによって行うという折衷案が取られた。この仕様からすると、仮にαショックがなければFDレンズの延命で十分戦えるという意識があったのかもしれない。それほどまでに既存マウントというものは資産であり、捨ててはならないものだと認識されていたわけである。

 

ただ、そんなキヤノンにマウント変更を決断させたのがαショックであった。α-7000をキヤノンはどう見たのか、別の資料にはこのような記述がある。

 

同社が受けた「α ショック」はすさまじく、社内では販売サイドから開発陣に対し、「α と同じようなものでいいから、『キヤノン製』としてすぐ作ってくれ」と、悲鳴に近い声すら聞かれたという。 α ショックからどう立ち直り、新製品を開発するのか。キヤノンの方針はすぐに詰められた。α 発売の翌月末の三月三十一日には、東京・新宿のホテルで賀来龍三郎社長(当時)をはじめ担当役員、日米欧の販売会社社長らが開発社二人を迎えて一同に会し、「御前会議」が開かれた。そこでの議論は、ミノルタに即座に追随するのではなく、社内で研究中の技術を急ピッチで完成させ、独自のシステムを開発しようという意見に集約された。

産経新聞特集部編, 全自動一眼レフへの夢 ミノルタ対キヤノン,『新ライバル物語1』,P30, 柏書房,2004

 

こうしてマウント変更へと舵を切ることとなるが、いくら基礎研究が進んでいたとしても、その後何十年かを担うことになる新規マウントの仕様策定や開発が一朝一夕に進むわけではない。αショック(1985年)からEOS登場(1987年)までの2年間のタイムラグというのは、つまりこういうことだったわけだ。そして時を同じくしてαは第二世代となり、いよいよAF一眼レフの競争は更に激しさを増していく。

 

というわけで、1987年にはEOSシステムが発表となり、同時に多数のレンズも発表された。中でも当初注目を集めたのはAF一眼レフ用で当時世界最高の明るさを誇ったEF50mm F1.0L USMや当時の定番高級レンズであるEF300mm F2.8L USM、そして大口径標準ズームであるEF28-80mm F2.8-4.0L USMに採用されたUSM……つまり超音波モーターである。この超音波モーターはほとんど無音で動作し、低速域で大トルクという特性を活かして大口径・高級レンズを中心に採用され、EOSシステムやEFマウントのイメージリーダー的存在でもあった。ただしこれらの超音波モーター搭載レンズは1987年初頭のEOSシステム発表時に告知はされたものの、実際の発売は少し遅れることとなった(最も早いEF300mm F2.8Lでも1987年11月発売・最も遅いEF50mm F1.0Lは1989年11月発売)。

 

ただ、キヤノンの中では高級シリーズであるLレンズの投入が発表時点で予告されたことからも分かる通り、キヤノンはEFマウントに当初から全力投球であり、少なくとも外部からはマウント変更という一種の賭けに対してもなんら不安を持っていなかったように見受けられる。これもまた繰り返しにはなるが、ミノルタαの先例あってのことなのは間違いないだろう。

 

さて、大口径のマウントを活かしたEF50mm F1.0L USMのように、AFレンズは80年代末~90年代初頭にかけてMF時代以上のラインナップを構築すべくその領域を拡大していった。

 

[キヤノンEF50mm F1.0L USM]

 

EF50mm F1.0L USMはより明るく、より大口径といったスペックを狙ったレンズだったが、逆にこの時期になると今までよりもさらに暗いAFレンズも登場している。それが反射望遠レンズであるミノルタ AF500mm F8 REFLEX(1989年)である。こちらは逆にF8と、これまでのAFレンズでは考えられない暗さであり、しかも反射望遠レンズとなっている。

 

反射望遠レンズはそのコンパクトさと超望遠としては廉価なことからMF時代には一定の支持を得ていたレンズ形式だったが、絞りが固定やボケがリング状になるといった特徴の他、光学系に反射鏡を内蔵しているため光束がドーナツ状となりAFセンサーとの相性が悪いため、AF化が困難とされていた。

 

これを解決したのがミノルタ AF500mm F8 REFLEXだったのだが、この問題の解決にはボディ側のAFセンサーの改良もセットで必要となったためこのレンズはα-7700iをはじめとしたiシリーズ以降でのみAFで使用出来るという制限が付くこととなった。また、この反射望遠レンズのAF化という流れは他社に広まることはなく、結果としてミノルタ(と、後にそれを引き継いだソニー)の独自レンズという立ち位置に留まっている。とはいえ、AF化が困難とされていたレンズのAF化はMF一眼レフに出来てAF一眼レフに出来ないという領域を潰していくことにもなるわけで、これもまたAF一眼レフが主流になるために必要な要素の一つだったと言えるかもしれない。

 

[ミノルタAF 500mm F8 REFLEX 結果として後を追うメーカーは現れなかった]

 

そして、ズームレンズも新たな世代へ移行しようとしていた。AF一眼レフが登場した頃には既にズームレンズが主流となっていたが、当時はAFレンズの頭数を揃えることが各社共に優先されていた為、一部の例外を除いて基本的には既存のMFズームレンズの構成をベースにAF化が進められていた。

 

しかし、ミノルタαが第二世代に移行し、キヤノンからEOSシステムが出る頃になると、もはやAF出来るだけでは当たり前となり、各社のアピールポイントはより高速のAFへと移っていった。α-7000を始めとした初期のAF一眼レフ用ズームレンズがとにかくAF化することが求められた第一世代のAFズームレンズとするならば、これに続く第二世代のAFズームレンズのキーは間違いなく高速化であった。

 

このため、重くて遠い前玉ではなく比較的軽いレンズを使ってAFするインナーフォーカス式がAFに最適な構成として注目されはじめ、AF時代に最適化されたズームレンズが模索されるようになったのである。とはいえ、こうした新たな構成のレンズを実現する為にはMF時代よりもさらに複雑かつ高精度なカムなどが必要なこともあり、新たに設計と生産両方で乗り越えるべき高いハードルが発生することにもなった。

 

要は、世の中がAF中心に動くようになりレンズ設計もAFレンズに特化しはじめたのがこの時代なのだが、そのためにはMF時代とは異なるハードルが生まれていた……というわけだ。これはユーザーからは見えづらいが、この時代特有の新たな課題であった。ちなみに、AF初期のレンズの最短撮影距離が現在に比べて著しく長かったり手動マクロで対応していることが多いのもこうした当時の制約の一つである。なお、このインナーフォーカス化の流れというのはズームだけでなく単焦点レンズにも展開されていった。

 

次はレンズ外装の話に移ろう。レンズの電子化はボディの電子化同様、操作部材の配置が自由になることをも意味していた。AF化されたレンズの発展により、鏡筒へ操作部を移す試みもこの時期に始まっている。

 

ちょうど先に挙げたレンズが該当するのだが、例えばEF300mm F2.8Lには前モデルに相当するNew FD300mm F2.8Lには存在しなかった多数のスイッチが配置されている。フォーカス範囲を制限するスイッチ、AF/MFを切り替えるスイッチ、予め指定した距離を記録するフォーカスプリセットスイッチ、ブザーのON/OFF、そして電子MF(バイワイヤ方式)の速度調整といったものである(なおAFや電子制御を持たないNew FD300mm F2.8Lには機械的なフォーカスリミット機構のみ搭載されていた)。またミノルタ AF500mm F8 REFLEXにもフォーカスホールドボタンとしてAF動作をボタンを押した時点でホールド(ストップ)する機能が付いており、またこのボタンの機能はカスタムカードによって変更することも可能になっていた。

※フォーカスホールドボタン自体はα-7700iと同時発表の望遠ズームから装備され始めた。

  

 

 

[左 EF 600mm F4 IS Lの操作周り 右 AF 500mm F8 REFLEXのフォーカスホールドボタン]

 

これまでピントリングを動かすことに使用されていた左手はAF化によってある意味ヒマになってしまったわけで、ここに操作部材を移すことでAF時代ならではの新たな操作系を生み出した……というわけである。とはいえ、相変わらず左手にはズーミングや場合によってはMFといった仕事があったため、こうした新たな操作系も爆発的に流行したわけでもない。ただこれ以降望遠ではこうしたボタンやスイッチがスタンダードな装備となった。

 

余談だが、これらのボタンはデジカメ時代には望遠レンズ以外にも取り入れられ、再度操作系への取り込みが図られたりもしている(オリンパス L-Fnボタンやサムスン i-functionボタンなど)。 

 

 

[レンズ側操作の今のところ最終形? レンズ側にもアップダウンボタンを持つサムスンi-function]

 

ここからはレンズメーカーについても触れていこう。前回はα-7000の登場によって交換レンズメーカーにAF一眼レフへの対応という荒波が襲ったことを述べてきたが、実際こうした時期の出来事は、徐々にではあるがレンズメーカーの側からも語られるようになってきている。例えばトキナーでは下記のような当時の担当者の率直な感想が語られている。

 

1985年。レンズ専業メーカーにとって、本当にビビった年でした。M社さんのαショックってあったんですよ。当時、画期的なAFシステムで(中略)マニュアルレンズしか作っていなかったレンズ専業メーカーとしては、途方にくれてしまった瞬間でした。だって今までみたく勝手に開発出来ないのですから。また、2年遅れてC社さんのEOSシリーズの発売。これは、レンズ内にフォーカス駆動モーター搭載と、絞りにはステッピングモーターを搭載して電子制御する、さらに複雑なシステムをもったAFシステムの発売で、もう無理って感じでしたね。

 

株式会社ケンコー・トキナー Tokinaレンズのひとりごと AT-X270AF 28-70 F2.8

https://www.kenko-tokina.co.jp/tokina/monology/at-x270af-28-70-f2-8/

 

[トキナーAT-X270AF 28-70 F2.8]

 

 

シグマでも同様に、この時期AF一眼レフの先行きが未知数な中でAF一眼レフ用レンズと共にMF一眼レフに取付可能な単体AFレンズも開発・発売しているが、こちらについても時流に振り回されたことを開発者自らが明かしている(この時期MF一眼レフ用単体AFレンズはそれなりにニーズがあり、リンク先にもある通りコシナ・タムロン・シグマが参入している)。

 

努力と苦悩の末、U-AF 55-200mm F4.5は1989年になんとか発売に漕ぎ着ける。しかし悲しいかな、販売面では全く成功しなかった。U-AF 55-200mm F4.5が世に出た1989年、そのとき市場はすでにAF一眼レフを中心に動いていたのである。(中略)もはやMFカメラにAF用レンズを買い足すような市場の空気ではなく、U-AF 55-200mm F4.5はその姿をひっそりと消したのである。

株式会社シグマ SEIN 大曽根、語る。第五話|U-AF 55-200mm F4.5を語る

https://www.sigma-sein.com/jp/ohsone/u-af-55-200-45/

 

[シグマAU-AF 55-200mm F4.5]

 

このように、α-7000発売からたった数年の間に目まぐるしく市場が動いており、レンズメーカーはそれに振り回されていたのがこの時期だったわけだが、それでもこうした現存するレンズメーカーは果敢に食らい付き、AF対応の交換レンズを続々ラインナップしていった(そして、AFに対応出来なかった輸出専業レンズメーカーが消えていったのも前回述べた通りである)。

 

こうした中で、カメラメーカーではなくレンズメーカー主導の製品として大ヒットした特異なジャンルのレンズが高倍率ズームである。現在ではすっかりカメラメーカー自身もラインナップに加えるジャンルではあるものの、AFレンズでこれらを定着させたのは間違いなくレンズメーカーの功績であるといえる。

 

さて、そんなレンズメーカー製高倍率ズームだが、一般には1991年のタムロン 28-200mm F3.8-5.6 Aspherical(71D)から始まったとされている。実のところこれ以前にも28-200mmクラスのAFレンズは存在した(テフノンAF28-200mm F3.5-5.6等)のだが、実用に耐えるスペックとなり、ヒット作になったといえるのはこのタムロンのレンズからである。

 

※なお、この時期のカメラメーカー製高倍率ズームレンズといえば他にミノルタ xi 35-200mm F3.5-4.5がある程度だった。このxiレンズについては電動化というもう一つの潮流に関わるため、次回以降詳述する。またペンタックスからはF 35-210mm F3.5-4.5の開発がアナウンスされたのだが、これは発売されないままになっている。

 

こうして実現された高倍率ズームであったが、画期的なスペックだけに当時は諦めるものもあった。特に語り草になっているのが最短撮影距離が2.1mと遠いことだが、これもおそらく先に述べたような当時の技術的制約によるものである。ちなみにこれらの問題を解決したのもまた、後継モデルで採用されたインナーフォーカスであった。

 

こうした高倍率ズームは、カメラメーカーが手がけないスキマ領域となっただけでなくレンズメーカー間で高倍率ズームレンズの開発競争が進むことでカムやフォーカス方式の高度化がさらに進むこととなったのである。

 

そうした意味では90年代初頭までというのは、カメラメーカー、レンズメーカーともにこれまでのMFラインナップのAF化という当初目標をクリアし、AFレンズにおける次のステップに進み始めた時期であると言えるだろう。

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