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エアポケットの時代 ─80〜00年代の日本製カメラたち─

第16回 各社最後のAF一眼レフとデジタルへの橋渡し(1)

2024/03/01
佐藤成夫

始まりがあれば終わりもあるというわけで、本連載で振り返ってきたAF一眼レフの歴史もそろそろ終わりが近づいている。今回からは最終的にAF一眼レフ戦線に残り続けた四大メーカーのトリを務めた最終機について紹介していきたい。

 

既に00年代前後の各社の項で紹介してきた通り、90年代半ば以降、AFフィルム一眼レフは機能面ではとっくに成熟しておりスペック競争も頭打ちになりつつあった。かつては確かに存在した世代ごとの劇的な進化はなりを潜め、各社の中上位機は質感や操作系によって差別化を果たそうとしていた。そういう意味ではずっと前から行き詰まりは見えていたし、それは00年代になっても同じであった。

 

とはいえ、今一人のカメラ趣味者として俯瞰すると、00年前後というのはカメラ趣味者にとってありとあらゆるジャンルのカメラが盛り上がりを見せ、そのいずれも脂が乗っていた──ある意味黄金時代であった──のではないかと思える。

 

 

多彩な展開をみせる2000年代のカメラ

 

これは上記のAF一眼レフの進化が行き詰まっていたこととも無関係ではないのだが、日本国内においては90年代半ば以降、旧来のカメラへ回帰するクラシックカメラブームが巻き起こった。この動きはクラシックカメラ・中古カメラを専門に取り扱う雑誌やムックが発売されたり、一部メーカーに趣味性の高い(が、一眼レフに比べ守旧のカメラだと考えられていた)距離計連動カメラやレンズのリバイバルを促すなど大きなうねりとなっていった。たとえば現在ではすっかりおなじみとなったコシナによるフォクトレンダーブランドでの製品展開が始まったのもこの頃(1999年フォクトレンダーブランド取得)である。

 

さらにこれらの動きと同時に35mm判一眼レフからのステップアップ先として、中判カメラで各種オート機構を取り入れた扱いやすいモデルが次々と発売されており、それまで中判一眼レフには見られなかったAFもこの時期に取り入れられ以降一般化している。

 

これらは趣味性の高いカメラの話で一般ユーザーにはあまり関係がなかったが、しかしこの時期のフィルムコンパクト機(レンズシャッター機)も同様に百花繚乱であり、中上級者向けには高級コンパクトや単焦点モデルが、そうでないユーザーには高倍率化を果たしたズームコンパクトが用意されており、そもそも台数ベースではAF一眼レフはとっくの昔にコンパクトに抜かされていたのは言うまでもない。

 

そしてもちろん、この間にもデジタルカメラは驚異的なスピードで進化を続けており、一つの指標であったメガピクセル(100万画素以上)に手が届くようになったのも束の間、あっという間に200万画素、300万画素のモデルが生まれていった。またこれらと並行してそれまではプロ以外は金額的に手の届かなかったデジタル一眼レフも段々と手の届く価格帯へと近付いていった。

 

このように、00年前後の写真・カメラ趣味者にとってはどのカメラも魅力的であり、選り取り見取りと言える状況だったのだ。

 

……とはいえ、これらは趣味者からの観点であり、そうではない一般ユーザーにとっては画質面で実用レベルに達したデジタルカメラが選択の第一候補となることは明らかであり、このデジタルへの移行はもはや止めようのない流れであった。フィルムというランニングコストがかからず、その場で確認出来て現像も不要というデジタルの特徴は、撮影枚数が多く速報性を求められるプロだけでなく、むしろ一般のユーザーにこそ刺さったのだ。

 

ちなみに、デジタルカメラの進化が猛スピードで起こっていながらもフィルムの生産量のピークは2000年であり、2001〜02年頃まではその生産量はある程度維持されていた。とはいえ2002年にはデジタルカメラの出荷台数がフィルムカメラの出荷台数を上回っており、デジタルカメラの時代が来たということは誰の目にも明らかになっていった。

 

つまり、フィルムカメラの絶頂期が来たと思ったらほとんど間を置かずに時代はデジタルへと移り変わったわけである。「デジタルカメラがフィルムカメラを凌駕したのはいつか?」と問われた時、人によって何処を分水嶺とするか見解が分かれるかもしれないが、勝負が決したのはこの2002年の出荷台数逆転によってであろう。

 

一方、メーカー側もある程度市場動向は把握しているとはいえ、開発にかかるタイムラグもあり各社のAF一眼レフ最終モデルの発売時期はそこから少し経った03〜04年に集中している。逆に言えば、各社ともこの時期にはフィルム一眼レフを見切っているわけである。

 

  • 【各社のAF一眼レフ最終モデルとその発売時期】
    ペンタックス *ist 2003年4月
    ミノルタ(※) α-70 2004年1月
    キヤノン EOS Kiss 7 2004年9月
    ニコン F6 2004年10月
    ※発売時は既にコニカミノルタ

 

ペンタックスのフィルムAF一眼レフ最終モデル「*ist」

 

というわけで、ここからは各社の最終モデルたちはどんなカメラだったのか紹介していこう。また、これらのカメラに対してはデジタル一眼レフとの関係性も切り離せないため、本稿では適宜その辺りにも触れていくこととする。

 

さて、ペンタックスはそれまでAF一眼レフのブランドとしてMZシリーズを掲げていたわけだが、最終モデルはMZではなく新ブランドの*istとなった(2003年4月発売・65,000円)。このフィルムの*istはいわゆる高機能廉価機カテゴリに属するカメラとなっており、EOS Kissやα-Sweet、U辺りと競合するポジションとなっていた。といっても、フィルムカメラで*istを名乗るのはこの一モデル限りであり、一般的には*istという名称はこの直後(2003年9月)に発売されたデジタル一眼レフである*ist D及び、そこから始まるデジタル一眼レフのシリーズ名としての印象が強いだろう。

 

*ist ペンタックス最後のフィルムAF一眼レフとなった

 

当時のカタログでは世界最小AF一眼レフカメラとなっており、これ以降大々的に世界最小を名乗ったフィルムAF一眼レフが存在しないことから、おそらく現在でも世界最小なのではないかと思われる。

 

フィルムカメラ最末期に突然発表された新シリーズであったことから、印象の薄い機種と言われることも多いカメラだが、実はペンタックス機の操作系を語る上では外せないカメラでもある。それは、*ist用として発売されたFAJシリーズのレンズから絞りリングが撤廃されたことにある。ここに来てペンタックスは再度絞りリングからの決別を決めたのである。

 

……とはいえ、先に述べた通りこのカメラはフィルムとして最初で最後の*istとなりFAJシリーズのレンズも全部で三本しか用意されなかった。そしてもちろん、デジタル機の専用レンズ(DAシリーズ)では最初から絞りリングは撤廃されていたので一般的にはこの転換はデジタル以降での変化と捉えられており、そういう意味でもこの機種の印象の薄さというのは否めないのである。

 

しかし、改めて見るとこの*istのデザインや操作系はこれまでのMZとは異なり、かといって以降のデジタル*istシリーズとも微妙に異なっている。ペンタプリズムを頂点に、左右末広がりに撫で肩気味の軍艦部のデザインはこの*istだけのものである。小型化のためかパトローネを右手側に置く配置が珍しいがこの配置を使った後継機が現れることもなく、結局はこれっきりとなった。今にして思えば、シルバーボディのみという展開もかなり思い切ったものだった。

 

操作系面での特徴はフィルム一眼レフ末期のトレンドに概ね沿っている。モードダイヤル、シングル電子ダイヤル、そして背面液晶に十字キーといった要素である。測光モードの切り替えやAFモード切替といった機能はレバーとして外に出されており、この辺りはクラシック操作の残渣を感じる部分でもある。モードダイヤルはMZの一部モデルの特徴でもあったオートピクチャーセレクト付きの光るダイヤルを採用しており、そういう意味ではMZシリーズの延長線上にあるといえる。

 

もちろん機能面でも高機能廉価機らしく測距点は11点、シャッタースピード1/4000秒、16分割測光に2.5コマ/秒の連写と充実している。マウントが金属であることはカタログでも謳われており、さらに廉価機では省略されがちな絞りプレビューの装備やカスタムファンクションの搭載、オプションとして縦位置グリップが用意されていた辺りは中級機に近い立ち位置を示していると言えるかもしれない。またファインダー内には待望のスーパーインポーズが装備され、AFポイントが光るようになった。

 

なお、*istはMZシリーズとデジタル*istシリーズの狭間にあるカメラだが、このカメラではハイパー操作系に類するものは採用されていない。*ist Dではグリーンボタンが採用され、フィルム時代とは違った形でハイパー操作系が復活するのだがそれはまた別のお話である。また、フィルムの*istでは上記の通り小型化を優先して肩液晶を廃し背面液晶を搭載したのだが、デジタルの*istシリーズは一転して肩液晶を中心としたインターフェースに戻ってしまった。この辺りもフィルムとデジタルの*istが同じブランドを冠していながらも兄弟機であるという印象が薄い一因となっている。少なくとも見かけや操作系の面では、フィルムの*istとデジタルの*istには直接の共通点が少ないのだ。

 

さて、ペンタックスはこのような形で同じシリーズ名のカメラを用意することでフィルムとデジタルの橋渡しを行ったわけだが、それ以前にはまったく別のシナリオも想定されていた節がある。それがMZ-Sのデジタル版とでも言うべき、過去展示会等に出品されていたK-1(現在は同名の機種がある為、以降便宜上初代K-1と呼ぶ)である。

 

初代K-1。2017年ペンタックスイベントでの公開時に筆者撮影

 

初代K-1は2000年のフォトキナにて発表され、そのスタイルはMZ-Sのデジタル版と呼ぶにふさわしいものであった。さらにフルサイズの撮像素子の採用が公言されており、同じレンズを同じ画角(※00年代から当面の間デジタル一眼レフの撮像素子サイズはAPS-Cが主流であった)で使用出来る、まさに夢のカメラであった。このような方向性は同時期の京セラ(コンタックス)でも標榜しており、あちらはコンタックス N1とNデジタルが同様の関係性であると言える。

 

ただ、この初代K-1はその後も各展示会に出展されブラッシュアップが続けられたものの、最終的にコスト面での課題が解決できなかったことから2001年10月には製品化の断念が発表された。もっとも、同様の組み合わせをなんとか発売まで持って行った京セラも決して成功したとは言えず、2005年には撤退することになるのだからこの時点のペンタックスの判断はある意味で妥当なものだったのだろう。

 

とはいえ、もしも初代K-1がそのまま出ていたのであれば当然MZ-Sベースである以上レンズ側の絞りリングは必須になっていたはずだし、そうなればペンタックスにおけるデジタル一眼レフの操作系は現在とは全く違ったものになっていただろうことは想像に難くない。

 

……というわけで、ペンタックスのAF一眼レフの最終モデル*istは、当初想定されていたであろうデジタルへの直接の橋渡しになったかは微妙ながらも、カメラとしてはその当時のトレンドを上手く捉えた、知られざる佳作(?)と呼べるモデルであった。

 

 

ミノルタのフィルムAF一眼レフ最終モデル「α-70」

 

時系列順で言うと、次の各メーカー別「最終モデル」はミノルタ α-70(2004年1月・オープン価格)である。余談だがこの時期になると既にオープン価格が採用されており、価格帯別のクラス分けが難しくなってしまいこういうものを書く身としては困っている。概ね高機能廉価機だが、一方で先行モデルであるα-Sweet II(2001年)にスペック上勝るところもあれば劣るところもある。また、同クラスとして考えるとむしろSweetを名乗っていないというのも目新しいところである。

 

α-70。ミノルタロゴを掲げた最後のαとなった

 

さて、このカメラを語る上で前提となる出来事がある。それは、このカメラはミノルタ名ではあるものの、発売されたのはコニカミノルタからであるということである。そう、カメラ業界の中でも特に長い歴史を誇るコニカとミノルタは、この時期(2003年1月発表)に経営統合を果たしているのである。統合後当面の間フィルムはコニカ、カメラはミノルタブランドが維持されていたこともあり、このカメラの製品ロゴはミノルタのままとなっている。コニカミノルタブランドへ統一されたのは公式には2004年2月のため、ちょうどこの直前に出たカメラということになる。

 

α-70はペンタ部はミノルタ・箱はコニカミノルタロゴになっている

 

そしてこのα-70もまたこの時期のトレンドと無関係ではない。その一つがボディへの金属素材の採用である。トップカバーはアルミ製となっており、いわゆる金属ボディを纏っている。これは高機能廉価機としては唯一のものである(一部パーツを金属化した例はこれまでにも存在した)。またマウントも金属製であり、この辺りに軽量化やコストダウンと質感の間で揺れ動く当時のバランス感覚が見て取れる。

 

操作系の面では当時のミノルタ上位機の操作系を受けた軍艦部ツインダイヤルとしつつ、右手側はモードダイヤル、左手側を機能ダイヤルとしている。左手側ダイヤルには多数の機能が詰め込まれているが、それだけこのクラスのカメラも高機能になったということでもある。これはSweet系の伝統でもあり、この左肩機能ダイヤルは形を変えつつ最後まで搭載され続けた。

 

測距点は9点、シャッタースピードは1/2000秒、14分割測光に3コマ/秒の連写とこちらも必要十分以上のスペックであった。ちなみにα-Sweet IIは測距点が7点だがシャッタースピードは1/4000搭載など、スペックで見ると単純にどちらが上位というわけでもなかったようである。繰り返しになるが、これらの要素だけを書き出してみるともはや90年代半ばの中級機を凌駕している。

 

一方で、操作系面での別のトレンドであった十字キーや背面液晶などは装備していない。そちらはα-7に任せるということなのかもしれないがこれもまたα-Sweet IIと同様である。実際、このクラスの基本設計が刷新されたのはα-Sweet IIの世代なので、こちらはSweet IIのマイナーチェンジ版と呼べるかもしれない。

 

なお、α-Sweet IIやα-70を含む末期のαに搭載された特徴的な機能として裏蓋のセーフティロックが挙げられる。この機能はフィルムが入ってる間は開閉スイッチを操作しても裏蓋が開かないというもので、その重要性自体は誰もが想像していながらも、その一方でフィルムカメラの最末期まで放置され続けていた課題であった。

 

多くのカメラでは裏蓋はメカニカルにロックしており、カメラの動作状態とは無関係にいつでも裏蓋を開けることが出来る。すなわち撮影結果がちょっとしたミスで失われる可能性があったわけだが、対策としてはプリワインド式として撮影済みフィルムは救い、残りは諦めるといったところがせいぜいであった(このことから、EOS の初級モデルなどはKiss以前からプリワインド式を採用していた)。フィルムの扱いにくさや失敗の要因はいくつかあるが、その中の一つがこの年代になってようやく解決されたわけである。

 

この機能が採用されたのはα-7からであったが、この機能の恩恵を受けるのはやはりα-7のユーザー層というよりは、α-Sweet IIやα-70のユーザーであったように思える。とはいえ、これらのカメラはいずれにしてもフィルムカメラとしても最末期であり、これらの機能が評価され他のメーカーにも広がるよりも先にフィルムの要らないデジタルカメラの時代が来てしまったのは皮肉な出来事だった。

 

なお、α名での最終モデルは上記の通りα-70なのだが、一方でコニカミノルタとしての最終モデルがα-70かというと実は議論の余地がある。というのも、本来であれば海外向けブランドであるはずのDynax名で販売されたカメラが存在しており、中でもDynax 30はコニカミノルタブランドの箱かつ日本語説明書付きで販売されたことが確認されているため、こちらが日本で販売されたAマウントAF一眼レフとしては最終モデルの可能性がある(あるいは同時発売かもしれないが、日本のコニカミノルタから当時新機種として正式にプレスリリースが出ているのはα-70のみである)。

 

ややこしいことにα-70は海外ではDynax 60として販売されており、何故30だけ国内でDynax名で流通したのかはちょっと謎である。もっとも、ミノルタ時代からDynax 3Lなどのモデルが国内で流通していたのも確かであり、α-70よりもさらに下の最廉価モデル故に仕向先別の作り分けのコストアップ分すら惜しまれたのかもしれない。

 

Dynax30。何故この名前で販売されたのかイマイチ謎である

 

さてこのα-70もまた*ist同様若干地味な立ち位置となっている。*istの場合は同シリーズのデジタル機が存在したが故の存在感の薄さだったが、こちらについては近い世代にほぼ同等の性能を持つα-Sweet IIが存在したためそちらの影に隠れてしまった感がある。いずれも小型軽量高機能でよく出来たモデルなのだが、発売時期の関係から中古のタマ数なども圧倒的にα-Sweet IIの方が多く、α-70はややレアなモデルになっていると感じる。

 

完全に余談だが、この筆者の手元にあるα-70は本稿が掲載されているPCT主催の中古カメラバーゲン(2023年9月開催)で入手したものである。この時期のペンタミラー式ミノルタ機はミラー蒸着の耐久性に難がありファインダーが綺麗なものは年々姿を減らしているのだが、この個体は未だにクリアな視界を保っている。いつまでこの状態がキープ出来るかは謎だが、こうした個体をお持ちの方は大事にして欲しい(α-Sweet IIなども同様にファインダー内の黄変・赤変が発生してしまう)。

 

さて、この時期になるとミノルタ(コニカミノルタ)も次のステップとして当然デジタル一眼レフを見据えていたとは思うのだが、その動きはやや他社とは異なっていた。1999年には当時のVectisをベースとしたDimage RD3000を発売しているのだが、これはベース機でわかる通り当然Vマウントのためα(Aマウント)とは異なるシリーズであり、レンズに互換性はない。

 

確かに後発のVマウントはAマウントとは異なり完全電子マウントとなっており仕様的にも新しく、また当時のコスト・製造面での制約から大型撮像素子の採用が難しかった為今で言うフルサイズ対応のマウントを使用するメリットが薄かったというのはあるのだが、一方で他のメーカーが提案したのは「現行主力AF一眼レフのデジタル化」であった。すでに一眼レフから撤退して久しかったオリンパスこそデジタル一眼レフへの返り咲き時にフォーサーズ(2002年発表)という完全新規システムを採用したものの、ミノルタ以外の各社は主力一眼レフのマウントを維持したまま、連続性のあるデジタル一眼レフ化という形を取っており、ユーザーが待ち望んだのもこの時期既に先が見えつつあったAPSを元にしたVマウントのデジタル化ではなく、ユーザーも遙かに多いAマウントのデジタル化であったと言える。

 

しかし、この時期に経営統合を行ったことへの影響があったのかなかったのか、結果としてAマウントのデジタル化は他社に比べて遅れを取ることになる。Aマウントのデジタル一眼レフ初号機(厳密に言えばこれ以前にもRD-175等があるが……)であるα-7 Digitalの発売は2004年11月、さらに当時のボリュームゾーンであったレンズキットで10万円前後の廉価機は2005年8月のα-Sweet Digitalまで待たなければならなかった。

 

なお、α-7 Digitalは好評だったα-7の操作系をほとんどそのまま引き継いでいた為、各メーカーが一時期目指していた「フィルムとデジタルで同じ操作系」を実現していたし、現在ではすっかりおなじみとなったボディ内手ブレ補正をデジタル一眼レフとして初めて実現していた。またα-Sweet Digitalはその名の通り、フィルム時代のSweetを継ぐカメラであり、同様に名を継いだKissや*ist Dシリーズとかつてのフィルム時代そのままのバトルを繰り広げていた。

 

こうして見ると遅れたといっても1-2年程度ではあるのだが、しかしこの時期のデジタルへの転換があまりにも急激かつ破壊的であったが故に、コニカミノルタはやがてこの競争から脱落していくことになる。

 

2005年7月、そうした現状の打開の為か、ソニーとデジタル一眼レフの共同開発で合意。これは実質的にソニーがデジタル一眼レフへ参入することとイコールであった為、それまでカメラメーカーの牙城であったレンズ交換式にいよいよデジカメの雄が乗り込んできたと話題になった。同時期にパナソニックやサムスンなどの家電系メーカーがレンズ交換式カメラへの参入を表明したこともあり、これらは新たな時代の始まりを予感させる出来事でもあったと言える。

 

その後については記憶に新しい人も多いだろうが、コニカミノルタは2006年1月、カメラ及びフィルム等のフォト事業からの撤退を表明する。これら一連の動きによって、AF一眼レフで一時代を作り上げたミノルタと、ミノルタのαは終わりを告げた。1985年から数えて約20年強、これで一つの時代が終わったと言えるし、その終わりは製品としてのフィルムカメラそのものの終わりともシンクロしたといえる。

 

その一方で、ブランド及びAマウントは協業先であったソニーが引き継ぐこととなった。そしてそれ以降のαの紆余曲折の歴史についてはおそらくそれだけで本が一冊書けるほどなのだが、それは本稿の主題ではないため置いておこう。AF一眼レフは死んだが、名前とマウントは残った。それは他の各社もまた同様であるが、AF一眼レフのパイオニアであるαが辿った運命はやはりその中でも特に数奇なものであると感じる次第である。

 

というわけで、今回はペンタックス及びミノルタの最終機について解説してきたので、次回はキヤノン及びニコンの最終モデルとその背景について紹介していくこととする。

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