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エアポケットの時代 ─80〜00年代の日本製カメラたち─

第19回  AFカメラの時代にレンズに起きたこと (2)

2024/06/01
佐藤成夫

AF化でレンズに起きた転換点といえば、レンズの明るさやラインナップも大きく影響を受けたと言って良いだろう。かつては明るいレンズ(大口径レンズ)を買う理由の一つに「明るいレンズほどファインダーも明るくなり、ピント合わせもしやすくなる」というものがあった。しかしこれもAFでピントが合うようになれば必ずしも明るいレンズを使う必要はなくなり、大口径レンズの魅力の少なくとも一部が削がれることになってしまった。これと同時にレンズの売れ線は単焦点からズームへと移行していたわけで、明るい単焦点よりも暗いズームという方向性がMF時代以上に強まったのは間違いないだろう。

 

更にこれはボディともセットの話になるのだが、多くのメーカーでは暗めのズームレンズが普及するのに合わせカメラ側のスクリーンを明るくすることで見かけ上の明るさをキープして釣り合いを取るようになった。ただしこれには弊害もあり、明るいスクリーンではMFのしやすさは犠牲になってしまった。MF時代はそれでも限度があったのだが、AF一眼レフにおいてはもはやAFでピントが合えば良いとばかりに明るさばかりを追い求めたスクリーンも存在するようになった。ただ、これが一概に悪かといえばそうでもなく、MFを使わないユーザー層に最適化した結果とも言えるわけだ。逆説的ではあるが、MFに頼らずに済むくらいAFの完成度が上がったからこのような変化が許された……と言い換えてもいいだろう。

 

とはいえ、実は初期のAF一眼レフにとってはレンズが暗すぎるのも考え物であった。ニコンやオリンパスなどが当初採用したAFセンサーであるハネウェルのTCLモジュールには、AF出来る明るさの限界値がF4.5までという制限があり、現にこれらのメーカーの初期のAFレンズは暗くてもF4.5までというスペックが守られている。実はAFセンサーにとってはレンズが明るすぎても暗すぎても都合が悪く、以降は対応範囲を広げるべく、ボディ側(センサー側)の改良もセットで進んでいくことになるのである。

 

この他、ズーム同様MF時代と立ち位置が変わったものといえばマクロレンズが挙げられる。MF時代のメーカー純正マクロレンズといえば比較的暗く、またマクロ性能についても単体で1/2倍、オプションで等倍対応といったものが多かった。一部レンズメーカーに単体で等倍まで対応するモデルであったり、ポートレートマクロを謳う明るいモデルは存在したが、それまでの純正マクロレンズというのは概ね特殊レンズに近い立ち位置であった。

 

一方で、α-7000と同時に発売されたAF 50mm F2.8マクロは十分な明るさながら無限遠から等倍までの全域でAFが可能とこれまでのマクロレンズよりも使いやすいスペックとなっており、同様に中望遠マクロとして無限遠から等倍までAFの効くAF 100mm F2.8マクロが登場したことで、AF化以降は他メーカーも含め概ねこうしたスペックが標準的となり、ズームに対するスーパーサブとして万能レンズに近い立ち位置を占めていくこととなった(当時はまだ近接撮影に弱いズームレンズや、簡易マクロ機能付きながらマクロ時はMFのみといったレンズも多かった)。

 

 

[ミノルタ AF MACRO 50mm F2.8  標準マクロのAF化&等倍化の先鞭を付けた]

 


さて、これらはカメラメーカー側から見たレンズの変化であったが、一方でこの変化に脅威を感じる人達もいた。最も脅威を感じていたのは交換レンズメーカーであろう。

 

というのも、カメラメーカーにとってはレンズも含めてのカメラシステムであり、交換レンズもまた重要な収益源であった。しかし、自社のレンズではなく互換性のある交換レンズメーカーのレンズを買われてしまってはメーカーが想定していた儲けも目減りしてしまう。一方で、電子化されたレンズであれば互換レンズの作成も一筋縄では行かなくなる。つまり、AF化と電子化は交換レンズメーカーを牽制(というか排除)する絶好のチャンスでもあったのだ。仮に互換品が作れないようになれば、ユーザーは必ず自社のレンズを購入してくれるのでさらに儲かるというわけである。

 

さすがにそこまで露骨な言い方ではないものの、当時の資料を繰っていくとそれに近い姿勢が見え隠れする。例えば当時ミノルタが発行した技術誌であるI’m MINOLTA TECHNO REPORTには巻末に研究開発本部 特許部名で次のような一文が記されている。

 

『本書で紹介いたしました技術を含めαシステムに関連し、弊社は、内外国に特許等の工業所有権を多数出願しており(昭和60年12月末日現在約570件)、それらは逐次権利化されつつある状況にあります(中略)事前協議もなくαシステム用の製品の製造・販売を意図されている企業等に対しましては勿論のこと、システム参入・不参入に拘わらず弊社の了解なくαシステムの技術を不当に使用、流用された場合は、本システムの開発者としての責任と立場から、弊社は適法かつ正当な権利を行使し、対抗措置をとる所存でございます』

『I’m MINOLTA TECHNO REPORT 1986特集号』, 1986, ミノルタカメラ P151

 


これはAF一眼レフを製品化しようとしつつある同業他社であるカメラメーカーへの技術的牽制であると共に、ハッキリと「αシステム用製品の製造・販売」と示していることからレンズメーカーや用品メーカーに対する牽制にもなっていると言える。

 

なお、AFカメラ以前はレンズメーカーにおけるリバースエンジニアリング(※)と互換レンズの製造についてはひとまず合法であり、またメーカーに対する事前協議等が必須というわけではなかった。一部特許権等について揉めたケースもあったものの、それによって交換レンズの製造そのものが否定されたわけではない。むしろ交換レンズ製造販売は広く認められていたと言える。

 

(※)入手可能な現物(ここでは各社の純正レンズ)を元にしてその動作や仕様を解析することで同様の機能を持たせた互換品を制作すること

 

 

とはいえ、かつてのMF時代はカメラとの情報伝達は外部に露出したレバーやノッチ等で実現されており互換性確保のためのリバースエンジニアリングも比較的しやすかったのだが、αマウントを初めとしたAF一眼レフカメラでは電気的な通信が必須となってしまった。レンズメーカーはこれまでに研鑽してきた機械的互換性の確保に加えて、突然電気的な互換性という問題にも対処することを迫られるようになったのである。

 

こうした課題はレンズメーカーにとっても簡単なことではなかったが、その一方でα-7000は大ヒットした為、当然それに対応したレンズメーカー製互換レンズも強く求められることとなった。作れるものなら作りたいし、おそらく出せば売れるのだが、作るにあたっての問題は山積み……というわけである。そして仮にリバースエンジニアリングで対応した場合、ミノルタが警告するように係争になる可能性もある。

 

こうした問題があったため、レンズメーカーも即座にAマウント対応のAFレンズを開発して追従することは難しかったようだ。先の通りAF化のキモは電子面であったものの、ハード面でもこれまでとは異なる作りを要求される部分は多々あった。AF機構そのものやモーター駆動に対応するヘリコイド、果てはAFに向いたレンズ設計など、AF化においては各部を最適化する必要があったのである。

 

とはいえレンズメーカーもさるもので、たとえばシグマではα-7000発売翌年の1986年にはAマウントに対応したAF 75-300mm F4.5-5.6やAF 35-135mm F3.5-4.5を発表し発売に漕ぎ着けている。またこれらと同時期にAF初期だけの過渡的な仕様として、造りは既存のMFレンズベースでピント合わせもMFのままだがROMは内蔵しており、Aマウントに装着出来てフォーカスエイドが効いてプログラムモードでの動作可能というFAP(フォーカスエイド&プログラム)なる製品も広角レンズを中心に存在していた(ただし、これらのレンズものちに正式にAF化されたためこれらは短命に終わることとなる)。

 

[1986年のシグマAマウント用レンズ広告 出典:写真工業1986年8月号及び10月号]

 


さて、こうした状況から、カメラのAF化にあたりレンズメーカーは3つの道のどれかを選択する必要に迫られた。

 

① これまでとは異なりメーカーと協調しライセンスを結び、正式に互換品を作る

② これまで通りリバースエンジニアリングを貫きメーカーと戦う

③ AFレンズ対応を諦める

 


α-7000のヒットを目の当たりにした多くのメーカーは①を選んだ。1986年8月、ミノルタはレンズメーカー5社(コシナ、小堀製作所、タムロン、トキナー光学、矢部光学機械製作所。このうち矢部光学機械製作所については聞き慣れない人も多いかもしれないが、有名な某テレコンの製造元のようだ)に対してライセンス契約を締結したと発表し、同時にこの契約を結ばなかったシグマに対して米国で訴訟を起こしている。そう、シグマは②を選んだのである。ただし、当時の記事によれば両者に事前の話し合いが全くなかったというわけでもないらしい。

 

[出典:写真工業1986年10月号 P47 ]

 


こうしたライセンス契約について表に出ているのはこのミノルタと各社の例くらいだが、どうやら別のメーカーにも同様なものは存在したようで、例えば小倉磐夫氏の『国産カメラ開発物語』にはEFマウントにおける同様の事例について、大手レンズメーカー社長の述壊として「(筆者注:EFマウント互換レンズの生産に際して)キヤノンさんが作りきれないほど交換レンズの受注残をかかえておられたとき、OEMで生産のお手伝いをかなりいたしました。その折にパテントの使用権を認めて頂いたわけです」とある。

小倉磐夫, 『国産カメラ開発物語』, 2001, 朝日新聞社 P194

 


実際、ごく初期に発売されたレンズメーカー製Aマウント用レンズについては鏡筒に「LICENSE BY MINOLTA」と刻まれたものが存在した。この表記は必須というわけでもなかったのか、ごく初期の一部のモデルだけに存在し、以降は消えている。

 

[ミノルタのライセンス表記のあるレンズの一つ コシナ AF70-210mm F4.5]

 


そして、決して自ら望んだわけではないにしろ、結果として3を選ぶことになったメーカーも多い。これらのメーカーは現存するコンシューマー向けレンズメーカーであるコシナ・タムロン・トキナー・シグマなどとは異なり、国内でのブランド展開を行っておらず、いわゆる輸出専業レンズメーカーと呼ばれるメーカーたちであった。急激に時代がAFレンズ主体に移っていく中で売れ線のAFレンズを用意出来ないという弱みもあってか、AF対応見送りや交換レンズ撤退に留まらずこの時期に会社としての活動を終えてしまったところすらある。こうしたメーカーは国内ブランドが存在しないか、あってもマイナーだったこともあり現在では忘れ去られようとしている。

 

なお、シグマは上記のような訴訟に対応しながらもリバースエンジニアリングによってこれ以降もAマウントをはじめとした各社のAFカメラに対応したレンズを次々と送り出しており、中には「ミノルタSRマウントやニコンFマウントをAF化するテレコン」といったものまであった。これはニコンでいえばTC-16、京セラで言えばAFコンバーター1.6xに近いものであるが、ミノルタはSRマウントからの移行手段を自社では用意しなかっただけに、ここをシグマがカバーするという面白い現象が起きているわけである。なお、ここに挙げたようなAFテレコンはいずれも焦点距離や明るさが変化することが嫌われたのか、それほど支持を集めることも出来ず、現在ではレアアイテムとして扱われている。

 

[シグマ AFコンバーター AマウントボディにMFレンズが装着可能だった]

 


……さて、そうなってくると気になるのは上記の訴訟の顛末なのだが、実はこれについては裁判で決着が付くことがなかった。というのもこうした裁判の常として審議には時間がかかるもので、そうこうしているうちに今度はミノルタがハネウェルから訴えられてしまった。ミノルタはこの有名なハネウェルとの特許裁判に際してシグマと揉めている場合ではないと判断したのか、シグマとの訴えを取り下げたからである。そしてもちろん、この訴えがなくなったことから互換レンズの製造に対するハードルもなくなってしまった。もっとも、この頃なると当のAマウントに限らず、レンズメーカー製AF交換レンズはすっかり市場に定着していたのであるが。

 


そんなわけで、AF一眼レフの誕生によって一時は存続の危機に晒されたレンズメーカー製交換レンズも、紆余曲折はあったものの結局現在まで生き残っており、引き続き消費者にとっては良き選択肢であり続けているのである。

 


ただ、最近はメーカー側もマウントを公開規格化して賛同社に情報提供したり、非公開の場合も(あのシグマでさえも)正式にメーカーと交渉し製造ライセンスを交わすことが多くなっている。つまり、AF一眼レフが出たばかりの頃とはだいぶ雰囲気が変わってきているのだ。それでも、昔はこのようなやりとりがあったということはAF一眼レフの歴史の一部であり、AF一眼レフを語る上で外せないピースの一つだと言えるだろう。

 

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