top スペシャルインタビュー『エアポケットの時代 ─80〜00年代の日本製カメラたち─ 』スピンオフ企画 ミノルタα-7000 開発者インタビュー第1回  α前史とマウント変更まで

『エアポケットの時代 ─80〜00年代の日本製カメラたち─ 』スピンオフ企画 ミノルタα-7000 開発者インタビュー第1回  α前史とマウント変更まで

2024/08/03
佐藤成夫

今月からはレンズ編の連載を一旦お休みして、AF一眼レフという市場を作ったカメラである、α-7000の開発者インタビューをお届けする。
 
今回インタビューに応じてくださったのは、元ミノルタの設計者である小堀敏男氏(α-7000開発~発売当時はαシリーズ開発プロジェクトリーダ-を担当)と井上義之氏(α-7000開発~発売当時は工場にて生産設計を担当)のお二方である。お二人はどちらも平たく言えば設計者ではあるものの、その担当職務は異なっており、α-7000開発~発売当時に同じ職場にいたわけではなく、小堀氏は開発側から、井上氏は生産側からα-7000に関わっていたとのことである(以下敬称略)。
 
 


[ミノルタα-7000 コニカミノルタHPより]
 
 
[略歴]
 

 
小堀敏男(こぼり・としお)
1939年埼玉県生まれ。1963年にミノルタカメラ入社後、主にカメラのボディ開発設計を担当。αシステムの原型となる構想から初期αシリーズの立ち上げまでを担当した。その後は開発から転じ、事業企画、デザイン、知財等を歴任。
 
 
 
井上義之(いのうえ・よしゆき)
1959年福岡県生まれ。1982年ミノルタカメラ入社後、最初の業務としてα-7000の生産設計に携わる。以降1994年にAPSシステムカメラの開発設計へと転じるまでの間、一貫してαシリーズのボディ生産設計に従事した。

 
 
──本日はよろしくお願いします。主にα-7000についてのお話を伺えればと思っているのですが、その前史に当たるカメラやα-7000の仕様が決まっていく課程なんかについてもお聞きしたいと思っています。
 
小堀:α-7000以前を語る上で重要な機種が2機種あります。一つは直接の前機種であるX-700、そしてもう一つは、実はXG-Eなんです。
 

 
[ミノルタXG-E 提供 同窓会会長]
 
 
 
[ミノルタX-700 提供 同窓会会長]
 
──αシリーズ直前のモデルであるX-700はわかるのですが、どうしてXG-Eが重要なんですか? X-700以前のボディとなると、例えば両優先のXDが有名なため、失礼ながらXG-Eが重要だとは思っていなかったです。
 
小堀:実はこのカメラから、ボディの作り方をまるっきり変えています。これ以前のカメラというのは、トランスファーマシンと言って、様々な工程の生産設備を並べて、金属のダイキャストに対して、穴開け・ねじ切り・フライス……と順々に加工してカメラの形にしていったのです。それを変えようということで、工場側の技術者と内々に相談して、このカメラからプラスチックと金属の一括加工、今で言うハイブリッドボディ化を行いました。
 
井上:ダイキャストの加工は、金属に様々な加工を施すために工程が非常に多くなりがちですが、ハイブリッドボディになると最後に本当に寸法が必要なフランジバックを合わせるために削るだけの行程のみにできるので生産効率が大きく変わっています。
 
──見た目には表れづらいですが、中身が大きく変わっていると。
 
小堀:はい、ハイブリッドボディはXG-Eが1機種目で、X-700が2機種目になります。
 
井上:X-700系は色々な派生機種がありますが、基本となる骨格は共通です。例えば電気系統の違いでフォーカスエイドを付けたX-600もそのようなシリーズ機種となります。
 
 


[ミノルタX-600 提供 同窓会会長]
 
 
──つまり、XG-Eで作られたボディが直接X-700に繋がり、それがXシリーズのメインとなったと。このX-700とそのバリエーションが、結果的にα以前の最後のSRマウント機ということになりますが、当時のミノルタを支えた機種だったと感じます。
 
小堀:自分が関わったカメラの中で一番「やった」感が大きいのが、このX-700というカメラです。第1回のヨーロピアン・カメラ・オブ・ザ・イヤーも受賞しました。ただあの賞は当時始まったばかりだったので、初めて連絡が来たときも「何それ?」という感じでした。ですが、この機種のヒットはミノルタにとっても節目となり、この後に始まるαシリーズへの経済的な支えにもなりました。X-700は息の長い機種で、最初、堺工場で立ち上げて、国内からマレーシア、上海と移り、18年間ほど作っていました。
 
井上:生産面では先ほどのハイブリッドボディの話の他に、カメラのプラ製トップカバーへの塗装は一度メッキしてから塗っていたのが、この世代からプラに直接塗装する技術が確立されました。(当時ミノルタ内で試されていた)色々な技術が集約されて、生産面でもまとまったというカメラだったと思います。
 
──ただ、この当時の集大成であるX-700からするとα-7000は完全新規システムですし、そちらへの移行にはかなりの決断が必要だったというのは想像に難くない。
 
小堀:αのプロジェクトはやはり(まったくの新規システムということもあり)不安が大きかった。そこでX-700がヒットしてくれたので気持ちの支えになったわけです。
 
──ではα-7000のスタートというのはどのような感じだったのでしょうか?
 
小堀:1980年頃、自分を含む当時の課長クラス数人で将来の一眼レフについての議論がありました。当時は一眼レフの市場が下降気味で、今後の一眼レフはどうあるべきだろうか、というような話です。
 
──それは、会社がプロジェクトとして立ち上げたというよりも、中堅社員が自主的に?
 
小堀:はい、自主的ですね。許可も何も取らずに小さいチームを立ち上げてやり始めました。
 
──そこでは既にマウントの変更が論じられていた?
 
小堀:検討開始時点で一眼レフの先行きは既に怪しくなっており、ユーザーを刺激するネタは、もはやAF以外にないと感じていました。一部のメーカーは既にAFにトライしていたのですが、やはり腰が引けていたのか、既存のカメラをそのままにレンズの変更だけで完結させようとしていたりと、無理があったので、こうしたやり方が主流になるとは思えませんでした。やるんだったら本格派をやらないと、と。
 
──これまでの延長線上ではダメだということですね?
 
小堀:そこで「このままではどうにもならない、新しいシステムが必要だ」と近しいメンバーを集めて検討して、その内容を当時の社内会議で提案しました。そうしたら真っ先に言われたのがマウントの話でした。「今のマウントのままやる方法はないのか?」と言われたんですね。なので「これから20年30年後の事も考えてマウントはどうあるべきなのか考えます。その上で今のマウントが使えるのであればそうします」と答えて、結局、その場では誰もノーとは言わなかったので、その場はそれで収まった印象です。
 
──その場では全否定も全肯定もされないまま、検討だけは進めることになった?
 
小堀:その後もマウントを変更して本当に大丈夫なのかという議論はありました。そして六甲サミット(筆者注:1981年6月に行われた、当時の首脳陣や米国の販売子会社を集めたミノルタの一大イベントと呼べる会議であり、αのプロジェクトは最終的にここで承認されることで正式にスタートした。神戸が開催地だったため、六甲サミットと呼ばれる)でマウント変更が議題に上がったわけです。
 
──六甲サミットといえば、αプロジェクトが正式にスタートしたターニングポイントとして知られています。議論は白熱したと思うのですが、最終的には何故ゴーサインが出たのでしょうか?
 
小堀:実はアメリカ市場の声で決まったのです。米国の販売子会社が言うには「ミノルタはアメリカ市場で『ファーストバイ(初めての一眼レフ)』として選ばれている」と。だから新しいシステムが既存のカメラと互換性がなくても影響は少ないと断言したんですね。
 
井上:当時ミノルタはアメリカで強く、売り上げの約半分はアメリカ向けという感じでした。
 
小堀:そういう意見が出たことで、もちろん国内なんかは心配ではあるけど、だいぶマウント変更に傾いて、最終的には設計出身だった当時の社長もマウント変更を認めてくれました。ただ、それ以降もプロジェクトを進めていく中で役員会議なんかをしていくわけですが、この時点でも、上層部が皆応援してくれるというわけではなかったのです。
 
──やはりシステム刷新に対する不安は大きかったのではないかと思います。
 
小堀:これまでも業界の中でマウントを変更するというのはタブーになっていました。レンズ資産が使えなくなると。ただ、そうは言ってもキヤノンやニコンの膨大なシステムに比べれば、当時のミノルタのシステムというのは小さかったし、先の通り米国の販売子会社は変えてもいいと、その代わり変えるからには大きな飛躍をしてほしいと、そういうリクエストだったんです。なので、マウント問題は確かに大きかったのですが、あまりこじれなかったんです。Aマウントはそこに応えることができました。
 
井上:業界的にはマウント変更によるシェアダウンというのは、普通に言われており、一部の会社さんでは、マウント変更で大きくシェアを落としたりしました。顧客にはマウント変更を納得させるほどの劇的な進化がないと、結果はよくない、という事は言われていました。
 
──AF化による劇的な進化が説得力を持たせたということですね。それにしてもマウントをはじめとしたカメラの基本仕様をそれ以降、20年・30年使うつもりで一から考えるとなると、どれを残してどれを省くのか、アクセサリーはどうするのかとか検討が非常に大変だったのではないかと……。
 
小堀:これはマイコンが出始めたタイミングにちょうど合致していて、電気的な通信によってカメラを構成できたというのが大きいです。これまでのように機械的な情報のやりとりで実現しようとしていたら、おそらく失敗していたでしょう。マイコン制御であれば、もし発売後に新たな仕様が必要になっても信号を追加すればいいわけで、マイコンがなければ成り立たないカメラなわけです。
 
──一方で、マイコンの進化をただ待っていては間に合わないという面もあった。
 
小堀:開発当初の試作機は電子部部分だけでトランク一杯になっていたのですが、これが数年後にはカメラに収まるという前提で作っていました。当時の上司はこれを「暗闇の空中ブランコ」と言ってましたね(筆者注:マイコンが将来的に何処まで発展するか分からないながら、その発展をある程度予測し、それを前提に仕様を決めて開発を進めていたことを指す)。
 
 


[ミノルタX-7 提供 同窓会会長]
 
井上:Aマウントの電子接点は当初5端子でしたが、その後、機能アップに応じて追加されています。この接点用のスペースも当初から空けてあったのです。
 
 


[α-7000の電子接点 5端子でさらに拡張用と思われるスペースがある]
 
 
小堀:マウントに求められる機能も変化していったわけで、昔のマウントは着脱とあとはF値が分かればいいくらいだったので機械的にピンやレバーを付けていたわけですね。とはいえ精度も必要だし、いずれ限界が来る。
 
──それが電子的な通信なら信号のやりとりだけになりますね。
 
小堀:Aマウントは最初から全てのデータや仕様を決めていたわけではなくて、その時点で必要なデータはもちろん盛り込むんだけど、将来必要なデータが増えたりしたらそのときには変更出来るよう、予め拡張を想定しておくという考え方で作られました。登場から30年以上経っていて、当初と全く同じではないとしてもこうして互換性を保ちつつシステムとして生き延びてきたのだから、その考え方は良かったのではないかと思っています。
 
 
[スイスホテル南海 大阪(難波)のラウンジにて]
 
[第2回に続く]

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