またまた、役に立たないであろう、個人的なリコー GR IIIxの話である。
 
撮ろうとしているこの光景は、何気ないのか、日常か、ありふれてるのか、生活なのか、、映えているのかいないのか、そんなことをぐずぐず想っているよりも、とにかくGR IIIxを持って歩き、シャッターを押す。
 
すると不思議なことに、勝手に向こうから日常がやってくるような気配がするのである。その気配に反応して、シャッターを押す。ありふれた日々が、今という時になり、カメラのなかで結晶となる。
 
撮った写真を見返していると、そんなことが起きたらいいねというようなことが、いともたやすく起きてしまっている気がする。これがGRマジックというものだろうか。
 
フィルム時代に写真をはじめた者にとって、写真を見返すという行為は、ベタ焼きを見返すという行為であり、それによって、動きやまなざしを反芻していくという行為であった。
 
これはつまり、いい写真を撮るというよりも、撮った写真からいい写真を探るという行為だった。いい写真というよりも、気になる写真、引っかかる写真といったほうがいいかもしれない。
 
はじめは、それ以前に、露出が適切でなかったり、ピンボケだったりして、失敗写真が目に付いたりする。じょじょに技術的な問題をクリアできるようになり、ようやく写真を選ぶ段階に入っていけたのだった。
 
じつは、初期のデジタルカメラにも同様の失敗がありがちだったのだが、その場で画像を確認できるようになった分、かなり楽になった。率直にいって、初期のデジタルのGRも、失敗しにくいカメラではなかったように思うが、GR IIIxはそうした問題もほとんど解決されているモデルになっていた。
ベタ焼き的に写真を見返すと、ダメダメダメダメ論外いいダメダメ気になる論外ダメダメダメ保留いいいい論外、みたいな流れになる。このあたりはカメラの個性が出るところでもあって、ダメも多いが気になるも多いカメラ、いいが多いが気になるが少ないカメラなど、さまざまである。
 
もちろん、カメラと使い手の相性というものもある。相性というのは便利な言葉であって、ほんとうは私がヘボなのを、カメラのせいにするわけである。カメラのせいにできるということは、違うカメラを入手する言い訳にもなるので重要だ。
 
GR IIIxで撮った写真を見返していると、技術的に論外というものがほとんどなく、気になるカットも増えたような気がしてくる。気のせいかと思うのだが、どうも毎回そんな感じである。喜ばしいことのはずなのだが、これはこれでなんとも不気味である。

 
おそらく他人から見たら、五十歩百歩どころか、ほとんど変わらないのかもしれないが、実感としてはかなり違うのである。
 
たとえば、意図と違っていても、GR IIIxのオートで撮った露出の方が、本当の私の意図だったように感じてしまう。これはどうかな、失敗だろうけれど一応撮っておこうか、と思ってシャッターを押した写真が、そこそこ気になる写真になっている。いかにも映える写真を狙っても、あざとさが軽減されて、それなりにありふれた日々が写っている。
 
なんだか、写欲や意図やあざとさが吸い込まれているようなミラクルが起きているのある。
 
その代償はないのだろうか?
 
たかだか写真に代償というのは大げさだが、たかが写真されど写真なのでいささか不安になってくるのだった。


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