話が明後日の方向に行ってしまった。
どうもいけない。カメラ愛好家と写真愛好家のところまでガガガっと戻そう。
カメラ愛好家に写真の話をして怒られることは、あまりないように思う。
きれいな花ですね、と写真の感想をいって、こんなカメラとレンズで撮ったという話になることはあるだろうけど、花の話なんてするな、レンズの話をしよう、と怒れられることはないのではなかろうか。花の話に、もれなく濃いめの機材話がついてくる程度だろう。
写真愛好家あるいは写真家にカメラの話をして怒られることは、ままある。
カメラは何ですか、と質問すると、どんなカメラかなんて関係ないといわれて詰む。どこで撮りましたか、と質問しても、どこで撮ったかは関係ないといわれて詰む。きれいな雲ですね、といっても、雲じゃなくて写真の話をしろといわれて詰む。しまいには、写真の話などせずに、写真を見ろといわれる。写真に帰ろうとしているのかもれしれないが、帰りすぎだろう。ここまでくると、禅問答というか威嚇芸である。
カメラが重要か、写真が重要か、写真機か、写真か、そこに溝というか、壁があるのは避けられないのかといえば、そうではない。
たとえば、木村伊兵衛は、1956年の外遊における経験を、次のように綴っている。ちょっと長くなるが引用してみよう。
今度の旅行で一番勉強になったのは、まずヘルシンキに出たということ、われわれは平和を望んでいるが、世界中の人の平和に対する考え方がよくわかったこと、ポーランドのようなソ連の衛星国を見たこと、それからパリへ来てブレッソンには1日、ドアノーにはずっとついていたが、前に行ったときよりもみんなの写真が変ってきているのを知ったことだ。それは第一に感光材料の点である。前に行ったときは、トライXとXXで、それの現像はプロマイクロールで増感していたが、2度目に行ったときはイルフォードのHPS、ウェストの400など速いフィルムが出来、現像薬もフェニドン系のイルフォードのミクロフェンが出来たということが、写真を変えてきた原因と思われた。ブレッソンのラボラトリーに行っても、それを盛んに説明していた。今までの露出ではいけない、露出計を800にもっていかなければいけない。このフィルムとこの現像液は、露出がオーバーになってはダメだからアンダー気味にかけなければいけない、などといっていた。それで若い人の撮り方が大分変ってきたが、ドアノーもブレッソンも相当絞るようになってきたのだ。今までF5.6だったのを8から11に絞るとか、長焦点レンズを使うようになった。ブレッソンは9センチの長焦点レンズを使って写すのが多い。そういう傾向が目にみえてきた。
このように、レンズと写真、そして感光材料や現像処理が、密接に結びついていることが自然だった時代もあったのだ。
当然といえば当然だ。
では、なぜそれらは分離してしまったのだろうか。
と、問うとまた脱線しまう。
ここでの問題は、カメラ愛好と写真愛好の壁を取り払うことはできないのだろうか、ということである。
いや、それも違う。
それはそれとして、カメラ愛好と写真愛好が両立している場合は、どう呼べばいいのか。そのあたりがさしあたりの問題なのである。
とりあえず、並べてみるのがオーソドックスなやり方だろうが、カメラ写真愛好、写真カメラ愛好、写真機写真愛好、写真写真機愛好、カメラフォトマニア、フォトカメラマニア、どれもすわりが悪い。
なにか新語があればいいのかもしれないが、思いつかない。
などと考えなくても、カメラや写真の定義というか概念というかイメージが変わりつつあるようでもある。
カメラとは! カメラが! 写真とは! 写真が! という時代でもなくなっているかもしれない。
こんなときはどうするか。
待てば海路の日和あり、果報は寝て待て、というように、なにもしない、というのもアリなのかもしれない。
カメラが!が?
カメラ goo goo
カメラ zzz……
PCT Membersは、Photo & Culture, Tokyoのウェブ会員制度です。
ご登録いただくと、最新の記事更新情報・ニュースをメールマガジンでお届け、また会員限定の読者プレゼントなども実施します。
今後はさらにサービスの拡充をはかり、より魅力的でお得な内容をご提供していく予定です。